寂しさの効用
10月ももう終わりですね。
いよいよ、という感じがいたします。
月めくりのカレンダーも「いよいよ」軽くなったといいますか・・・。
毎年この季節になりますと、故郷の北海道を出て一人で暮らし始めたことを思い出します。
心細く、辛い気持ちです。
当時は夕方の、ちょうど昼と夜の合間の時間が苦手でした。
逢魔時 (おうまがとき) というのでしょうか・・・陰と陽の交じり合う時間です。
※逢う魔が時(おうまがとき)・逢う魔時(おうまどき)ともいい、黄昏時(たそがれどき)のことで、古くは「暮れ六つ」や「酉の刻」ともいい、現在の18時頃のこと 。黄昏時は黄が太陽を表し、昏が暗いを意味する言葉であるが「おうこん」や「きこん」とは読まないのは、誰彼時とも表記し、「誰そ、彼」のことであり、「そこにいる彼は誰だろう。良く分からない」といった薄暗い夕暮れの事象を、そのまま言葉にしたものと、漢字本来の夕暮れを表す文字を合わせたものである。
当時の気持ちをいま振り返ると・・・どこか遠くまで散歩をして歩いてきたけれど、振り向くと、帰りの道を見失ったような気持ちだったのかもしれませんね。
知らない家の灯りがうらやましく思えた「夕方の帰り道」の感じをよく覚えています。
それが今では、ずうずうしく「それならそれで知らない街で美味しいものでも食べて帰ろう」などと思うのでしょう・・・そのずうずうしさ、自分ではわりと気に入ってますが。
それにしても、人にとって、寂しさっていうのは、大切な感情なのかもしれませんね。
寂しさを深く感じれば感じるほど、いい味が出るのかもしれません・・何に? いえいえ人生に、です。
歌も詩も、ブンガクも、そういう「寂しさ」や「やりきれなさ」がなくては成り立ちません。
「寂しさ」って、秋の言葉ですね、きっと。
この「寂しさ」を拾い上げて、こころの中に蓄えて、そしてときには「繊細に」ときには「ずうずうしく」生きていきたいものです。(美味しいものはやっぱり秋ですもの・・・、やっぱり・・という声が聞こえてきそう)
でも、あの頃の「寂しさ」を心の深いところで感じた時代があって、人にとってかけがえのないものに気付かされたのも確かなことです。
わたしが伝えたい、「ごはんのうつわ展」や「こどものうつわ展」の原点にあるものは、もしかしたら、この当時に感じた「家族とともにある日々」のかけがえのなさなのかもしれません。
さて、うつわ祥見では「尾形アツシ作陶展」が今日最終日を迎えました。
お出かけくださった皆様 有難うございました。
尾形さんの向かって行く仕事を感じられるよい展覧会でした。
器たち、ぜひ、手に包んでお使いいただき「育てて」いただきたいと思います。
今回の器たちは、しばらくonariNEARで展示します。
週末の鎌倉へぜひお出かけになり ご覧ください。
11月2日(月)はわたしが一日在店しています。
このあと、NEARでは村上躍さんのポット展が始まります。
会期11月6日(金)〜11月18日(水)
会期中 木曜定休です。
50点のポットが届く予定です。
躍さんのポットは革命的な使い心地と、その完成された美しさにあります。
ぜひご覧ください。