TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

会えてよかったと。


雨の月曜日から一夜あけて 今日、鎌倉は朝から気温が上がって晴れの一日となりそうです。

昨日はNEARに一日おりまして、『同窓会』についての文章もNEARのパソコンから。

日中 高知の哲平さんから電話があり、

「器の同窓会、やりましたよ」と報告すると、

「今度は親も呼んでよ・・」と笑っていました。


わたしが普段伝えている器は、あえてジャンルで言いますと、

「日常雑器」の、「作家もの」ということになりますが、

これらの器の真価は、「使われて育つ」ことにあると考えています。

作家ものの器を買って満足し、「もったいない」ので使わずに眺めているのは それこそ「もったいない」ことです。



ただこれもまだ 実際に手にしてくださる方のお話で、

NEARにいて感じるのですけれど、

店内に入っても「どう接してもいいのかわからない」という顔をされて、店のなかを一周して帰られる若い方が本当に多いのです。


以前に若い女の子と話して

「いつもどんなめし碗でごはんを食べているのですか」とお聞きすると

「食べてないです、あんまり家でごはん 食べないです。メロンパンとか菓子パンは食べますけど」という答えが返ってきて驚いたことがあります。

そのお話は極端だとしても、

器を自分の手や、自分の目で選ぶということが習慣づけられていないので、
実際にどう器と出会ったらいいのか、どう接していいのかわからない、というふうに感じられる方が多いのではないでしょうか。

わたしは器を愛することは「趣味」でなく、自分を愛することにつながっていると信じている者ですが、何をもって「信じる」かと言えば、

器の本質が「食べる道具」であること・・・

その一点を信じているのです。

毎日使われる器は、わたしたちが食べて生きていく道具です。

その道具は手に包まれ、手のなかで いつの間にか 力強く頼もしく、育っていきます。

ここで強調したいのは、

目に見えて「よく育ったなぁ」なんていう「わかりやすい変化」を
器との付き合い方の「成果」のように取り上げているのではない、ということです。

経年の変化が「目に見える」ことが大切なのではない、ということです。


毎日生きていく、その時間を、器は受け止めることができる。

こんなふうに書くと大げさですけれど、当たり前のことです。

気が付いたらそばにいつもこの器があったなぁ・・・と思える器と暮らしたいのです。

そんな、器と人の付き合い方がいいなと思います。


うつわ祥見の常設の空間NEARでは、そんなふうに感じていただける「会えてよかった」と思える器たちを伝えたいと願っています。


それにしても、あの「メロンパンを食べる」と言った女性に 「メロンパンでいいから、ちゃんと選んだ器で食べようよ」と伝えたいなぁ・・

本物の器で食べたら、きっと土の味のする野菜が食べたくなるよ・・と伝えたいなぁと思います。


誤解のないように言えば 実はわたしも「メロンパン」は大好きで、いつも美味しいメロンパンを探していますが・・。
昔、新橋の駅で買ったメロンパンが美味しかったなぁ。。。

でも、メロンパンはあんまりお皿に乗せないかしら・・。 


話がずれていきそうなので、今日はこのへんで。


では皆様、今日もよい器と、こころ晴れやかに 暮らしましょう。