TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

  その美しさの深きバランス。 吉田直嗣展の器を待って




今夜ももうすぐ日付が変わります。

皆さん、今日はどんな一日でしたか。

器たちは元気にしていますか。

わたしは食べ終えて使った器を洗い、明日の米を研ぎ、台所仕事を終えました。

台所の電気を消すとき「ごくろうさま」と器に言い、わたしにも器たちが「ごくろうさま、また明日ね」と言ってくれているように感じます。

「また明日ね」という言葉が好きで、娘が小さいときは毎晩「おやすみ」のあとには必ず「また明日ね」と声をかけていた時期がありました。

「また明日ね」「また明日ね」と、毎日。 部屋の灯りを消すときに。

それはまるで日々を生きる「おまじない」のようでした。

「また明日」の日々はやがて かけがえのないものとなっていく。
 そんな単純なことが時々むしょうに愛しいものです。

そして、少々センチメンタルな言い方をすれば、器はそんな時間を見ているんだな・・・と思います。

家族との時間も一人の時間も。器はちゃんとそばにいるんですよね。(保険会社のコマーシャルみたいですが・・・)

器は生きる道具だから、毎日手に包むものだから、それだけ年月をともに暮らすものだから。

一緒に暮らす器は、頑固だけれどこころ優しい、素朴なものがいいと思う。

器とともに、ちゃんと、食べて。 贅沢ではなく、地の力を蓄えた食べ物をちゃんと食べて生きていけたらいいと思う。





先日、NEARでお会いした女性が 「吉田直嗣展」のDMを手にされて

「わたしも同じように感じます」と言われたので 嬉しく思いました。

それはDMに寄せて書いた次のような言葉でした。


吉田さんは、複雑で厳しい仕事を成してしか得られない「黒」を表現し続けていましたが、
近年は果敢に「吉田直嗣の白」に取り組んでいます。
黒同様、誰にも真似のできない白もまた魅力的です。
白・黒共に、色鮮やかな生き生きとした料理を盛りたい、と情熱的に思わせる器。
それは「静と動」の魅力が器に潜んでいるからなのでしょうか。


その女性が反応したのは「色鮮やかに生き生きとした料理を盛りたい、と情熱的に思わせる器」というところ。

「そうなんですよね。本当に、器を見た瞬間に、あ、料理をのせたいって思うんです」「まさに、情熱的に」と、おっしゃいます。

器への賛辞としてこれ以上の言葉はありません。

『日々の器』の第一章で旬の果物・びわを吉田さんの鉄釉の鉢に盛ったときも、
いま思えば 八百屋さんの店頭で美しいびわを買い 迷わずに鉄釉の鉢に「ざっと」盛った瞬間を撮影したのです。

計算したのでも、スタイリングしたのでもなく、まさに「情熱的に」盛った瞬間の写真です。

色気がある器というのでしょうか・・・吉田さんの最近の器にはそんな言葉が似合います。

今回のDMに撮影した白磁の器も、なんて色っぽいのでしょうか。

洗練されていながら、どこかでしっかりと地の力とつながっている。その美しさの深きバランスが、わたしは好きです。

この美しいバランスを表現することは誰にも真似のできない仕事です。


DMに書いた「静と動」は「生と死」「光と影」と置き換えてもよいのかもしれません。
それは相互に引き合い、力を保ち、その両方が生きて次なる世界への扉を開く、そんな可能性を持つものです。

それは清清しく、凛々しく、たくましく、「この複雑な世界」に向き合う「覚悟」とも言えるかもしれません。

彼の仕事は、もしかしたら 小説家が「フィクション」という手法で描き出す「現実への答え」に近いかもしれません。(少し難しいですね このあたりをここで伝えるのは)

彼の白磁の白と、鉄釉の黒。 
ぜひこの時期に、若き作り手の、異なる二つの表現をご覧ください。


器が届くのが大変楽しみでなりません。

展覧会の前というのは、待つ側のギャラリーの人間から言うと、

毎回 待ちわびた恋人がやってくるのを待っているような感覚です。

こちらも背筋を伸ばし、気持ちを整えて 器の到着を待つことにします。

搬入はあさって。

初日は6月12日 土曜日です。

12日と13日には吉田さんが在廊します。

ぜひ皆様お出かけください。