心を映す、器と。
あちこちにノートを置いて、書きとめるクセがなかなか治らないのは、
いつもいつも、器のことを考えているせいかもしれないと思うことがあります。
考え事というのは、ただ漠然と、「今日は何を食べようか」というのんびりしたことから、
仕上げなくてはならない仕事の時間的な制約をクリアにするため思考や
約束事を守るために必要な労力の「計算」・・・普段からいくらでも、「考える」ことがあって、とどまることないわけです。
そうした「考え」を時々に必要な課題をこなしていくための思考とすれば、
「器とは何か」という命題を考えることは、終わりなき思考とでもいいましょうか、
誰に頼まれたのでもなく、ただくり返し、、あちこちに思いついたことを書き留めていくことになります。
年末の部屋の掃除で、一冊のノートが出てきました。
ぱらぱらとめくってみますと、2008年度のノートのようです。
4年前ですね。
短い言葉が鉛筆で書かれていました。
こんな文章です。
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いちばん愛しいのは、時間なのだと思う。
かけがえがなく、
愛しいのは時間。
誰にも止めることができない、
誰にも作ることもできない。
もちろん、お金で買うこともできない。
その時間というものが、
わたしたちが生き続けるために、食べる器というものに、降り積もっていく。
そのことが愛しいのだ。
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2008年といえば河出書房新社から『日々の器』を上梓した年です。
感慨にふけっているのではありません。
ただ、呆れるほどに、ずっと同じことを、繰り返しているんだな、と思ったにすぎません。
器とは何か、を考え続けて、「器は食べる道具」であるという答えを見つけました。
あまりに、ありふれていますね。
しかし、ありふれているからこそ、器なのだ、と最近さらに思うのです。
わたしたちの、繰り返す、日常の時間に、特別なものではない存在、それが器なのだ・・と。
ノートに書かれた、鉛筆の走り書きを見ながら、今夜はそんなことを思っていました。
昨日1月6日、鎌倉駅そばの常設の店「onariNEAR」が今年はじめてオープンしました。
私は、久しぶりに、器たちを間近に見て思いました。
NEARにある器は、どれも、本当に素晴らしく、美しい器たちでした。
華美ではないけれど、しっかりと強い芯あり、美しく、きりりとした表情で、立っておりました。
土の器の素朴なあたたかさ、
白磁の白の濃厚で、優美なやわらかさと、清らかさ。
新年の、新しい気持ちで店内の器をゆっくりと手に取ってみたせいでしょうか、
小さな小皿ひとつにも、何か、心打たれるものがありました。
「器を感じる」とか「器に出会う」というのは、
劇的な始まりの瞬間が或る日訪れるようなドラマティックなことではないかもしれません。
ただ、しみじみと、食卓で。とても小さな出来事の積み重ねで。
食事は心を満たす、心の所作なのだと思います。
一枚の器と、人が、少しずつ距離を縮め、信頼を重ねていく。
どこでもあるありふれた、食卓の光景のなかに、
かけがえのない「時間」をとともに生きていくのだと思います。
一客の器が、いま、この深刻な時代を生きていく、小さな個の、小さな光となるように。
そう願っています。
心で器を選び、心を許す器をそばに置く。
そう言い当てれば、器は心を映すものなのかもしれません。
素直に、心を映すものとして、器を。
よい器を選ぶのには、心の余裕も、確かに必要かもしれません。
NEARで、「うつわ祥見10周年の展覧会スケジュール」をお渡し始めています。
明日には、HPでも、後期スケジュールをすべてお伝えしますね。
お知らせできるのがとても嬉しいです。
おやすみなさい。