TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

 居心地のよい世界、立ち寄る場所。


深夜 もうすぐ3時となります。

村木雄児さんのそば猪口で白湯を飲んで身体をあたためて いざ 眠ろうかとしたのですが、

言葉で出てくるような気がしたので ちょっと、ここに「立ち寄って」みました。

「立ち寄る」という言葉も、いま、出てきた言葉です。

なかなかよい言葉ですね、「立ち寄る」。

最後に眠る場所ではないところ、ではあるけれど、大変親密な、信頼のおける場所に使うような。

自分で書きだして、この最初に出てきた言葉に これだけ反応してしまうのですから、

文章を書くというのはおもしろいものです。

さて、本題・・・と話題を変えたいところですが、本題がありすぎて 本題をあらわすには 時間も字数も足りないのです。

というのも、やっぱり、最近、抱えている問題が私のなかでは、深刻に内側に渦をまいておりまして。

それは、やはり、「どうしたらもっと器を伝えられるのだろうか」ということに尽きるのですが。

3月11日、この日を境に、世界は変わったという人がいるとしたら、何がどう変わったのか、それが「変わらない日常」にどう影響したのか、という考察を、しなくてはならないと感じています。

つまり、ある厭世観が世界のいたるところに染み付いているというのに、実際は「何も変わっていない」のではないかという、諦めの気持ちが心のどこかで蝕んできていているように感じられるのです。

3.11後の世界。

世間がくり返し「追悼」の言葉を口にするとき、私は、この日を、「ふつうに過ごす」ことで、自分のなかに問題意識を内側に向けようと試みました。

そして、いつもくり返し、念じている、仕事は仕事で、生き方は生き方で・・・の「伝え方」について、そう言い切ることが、果たしてよいのだろうか、と自問を繰り返しています。

この問いは、そう、大げさに表現するならば、この「問い」はきっと、明確な答えなど出ないのでしょう。

だからこそ問い続ける意味があり、「仕事は仕事で」、「生き方は生き方で」、世界へ手紙を書いていかなくてはならないと思っています。

そしてね、その手紙には、絶望ではなく、ちゃんと笑って「YES」と、そう記したいと思っています。

それでも世界は素晴らしいよ、という「YES」を。

居心地が悪い椅子に座り続けてもう耐えられなくなってきているような、厭世観はもう捨てて、新しい居心地を、わたしたちは自分たちの力で見つけなくてはならないのでしょう。

その「居心地」は、こころの澄んだ、空気のしんとした場所がいいなと思います。

でも、少し、がやがやして、まるで、街の食堂のような。

美味しいごはんと、少々恐いけれど姿勢のよい店主がいて、曲がったことは嫌いだけれど人情味たっぷりある下町の、そういう食堂のような「居心地」がいい。

そこにある器たちも、高尚な趣味的なものではなく、なんでもないけれど、繰り返し使われて、くり返し使った人の時間を感じられるような、器がいいなと思います。

きれい事ではなく、生と死が店先に転がっている、街の食堂で。
でも、とびきり清潔なタオルが一枚かかっている手洗いがあるような、そんな生きている場所を。

誰もが安心して生きていける、そういう「居心地」を、わたしたちは本気で見つけて、

ほんとうの幸せとはなんぞや、風に吹かれてそんな「問い」など忘れて、鼻歌でも歌いながら、しみじみと、暮していけたらいい。

世界が、人種も世代も、何もかも超えて、老若男女が立ち寄る居心地のよい場所であればいい。

そんなことを考えているのでした。

今日は今月末に始まる国立新美術館地階SFTギャラリーで行われる「MESHIWEN」展について、出展の作り手の皆さんと連絡を取り合い、さまざまな話をしました。


http://utsuwa-shoken.com/meshiwanten2012.html


NEARでは、一年ぶりに吉田直嗣さんの個展が始まります。3月16日初日です。


http://utsuwa-shoken.com/utsuwashokenonariNEAR.html


そして大分では、うつわ祥見初めての展覧会が 城下町中津にある「丹羽茶舗」さんで開催中です。


http://www.niwachaho.jp/gallery201203.html


器と日々は続いていきます。

皆さんの家の器たちは元気ですか。

3月は色々と考えることが多いですが、器たちは変わらずに、そこにいてくれます。

明日も器とともに、健やかに、よい一日となりますように。