器が好き、という気持を見つめ、育てること。
こんばんわ。
時刻は午前4時。
少し仮眠をして、いま、目を覚ましたところです。
このところ、一日の休む間もなく、動きまわっていると、少し、「ことん」と音を立てるくらいに、
自分のこころと身体を休ませる必要があるのかもしれないと思います。
身体とこころは同じものですから、身体がこりこり 凝っているときには、たいてい呼吸も浅く、考えることも「硬い」ので、窮屈なものです。
そういうときは、自分の身体の外側の「ふち」を意識するのです。
風船か何かになったつもりで、外側の線・ふちに向かって、身体の大きさを押し広げるような気持ちです。
すると、たいていの、余計なものが吹き飛んでいきます。
外側の「ふち」にはびこっていたものが払拭されると、気持ちがいいのは、内側に、もともとあったものが、
「しゃん」として、存在を明らかにするからです。
つまりは、もっとも、大事にしなくてはならないものが、しっかりと感じられるのです。
いまも昔も、世間とか世界とかいうものと、わたしたちは「渡り合って」生きてきたと思いますが、
そういう外側にあるものは、何かと、わたしたちに無理を強要するのです。なにせ、ただ立っているだけで
何かと巻き込まれるのが「世間」や「世界」なのですから。
生きていくというのは、それは 大変なことです。
しっかりと自分の足で立つというのは、実はなかなか、大変な仕事なのだと、最近、つくづくと思います。
そこで、内側の「強度」が大切になるのです。
つまりは、自分が「しゃん」とできるように、もっとも大事なものを蓄えておくということです。
大事なもの、それが、毎日の暮らしなのでは・・・と思っています。
内側の「ウチ」は 生きるために必要な力、ということです。
それは、外側の世界としっかりと渡り合っていくために必要な内側の力なのだと感じています。
先日、ある方から、器に関しての「悩み」が寄せられました。
好きな器を集めても集めても、まだ器が欲しい、もう充分持っているのに、まだ新しい出会いを求めてしまう、という悩みです。
そのことについて、私なりの答えを書きますね、とお伝えしていましたら、
ほかの複数の方からも「答えをお待ちしています」とリクエストをいただきました。
私は考えました。ずっと考えてきました。
そして、こうお伝えしようと思ったのです。
器を好きでいてください、と。
「あれ」と思われるでしょうか。
でも、肩透かしでも、なんでもないのです。
好きという気持ち、生半可ではありません。
器を好き、という気持ち、わたしのこの日記を読んでくださっている方なら、もう半端でなく「好き」でいらっしゃる方と思います。
その方に「好きでいてください」と、わたしはあえて、お伝えしたいと思うのです。
数が増えていくこと、収納の問題もかかわりますね。
もちろん、収納には物質的な限度があります。器の重みで床が抜けてしまうなんて冗談にもなりません。
家族3人にその10倍もの数のめし碗がある必要はないのです。
収納は物質ばかりではなく、精神的な容量も関係します。
こころにも、限度があるのです。
好きで集めた器たち、すべてを同じ気持で愛するなんて 無理な話です。
世間では、「捨てる技術」というものが、こざっぱりと快適に生きていく知恵のように言われています。
わたしもその考えに異論はありません。
余計なものを捨てていく。こざっぱりと、何もかも捨てていく。
その生き方に憧れて、かつて、実践しようとして、ふと、立ち止まったのです。
捨てられないものがあることに気がついたんですね。
それが、器を愛するというこころでした。
捨てても捨てても捨てられないものが、実は自分自身をかたちづくるものなのではないでしょうか。
そして、増えていく器たちに、悩みながらも、まだ器を見たい、まだ求めたいという気持ちがあるなら、しばし、放っておくとよいのではと思うのです。
囚われているものは、きっと、外側にあるのです。
外側にあるものは、外側のふちを強くして、ふるい落としてしまうのです。
そして、器が好き、という気持ちだけ 見つめるのです。
数の問題ではないことがわかるのではないでしょうか。
新しいものに出会いたいというのは、器を好きでいる気持ちのせいなのです。
ちっともおかしくありません。けれど、すべて「受けとろう」とするのは やっぱり無理があるのです。
器を好きでいること、出会いを無理せずに待つこと、
そうやって、こころのなかで、器を好きという気持ちを健やかに育てていく。
そして、器を好きでいる自分を「好き」でいてほしいと思います。
生きていくために、必要なものは、そう多くはありません。
器も同じです。
本当に必要なものは、極端な話、一枚の皿と、一客のめし碗、そして湯のみ だけで充分です。
でも、まだ欲しいと願う自分がいる。なぜなら、器が好きだから。
器を見て、ときめく自分が好きだからです。
大切なのは、やっぱり、自分自身のこころなのではないでしょうか。
「もう必要ない」と思えたら、もう必要ないのです。
そして、「器を好きでいる自分が好き」という状態にも「囚われない」ことが大事なのでは、と思います。
誰かが好きな作り手の個展へ行き、何か特別な器を手に入れたと聞くと、心中穏やかではないかもしれませんが、
それはそれで「心中穏やかではないこと」自体を放っておくのです。
そのことに囚われていては不自由なのですから。
器を好きでいることは、後悔なんていないものです。
じゃあ、次は必ず個展に足を運ぼう と思うと、わくわくします。
「わくわく」だけをこころに蓄えるのです。
器との出会いは、時間との出会いです。
器は人とともに生きていくものです。時間というかけがえのないものを、ともに、積み重ねていくものです。
だから愛しいのです。
対等に、生きていくものだから、尊いのです。
作り手の名前ではなく、自分の時間をともに生きるからこそ、価値があるのです。
そういう器と出会い、ともに生きていくこと。
くり返しになりますが、生きていくために、内側の「強度」が大切になるのです。
自分が「しゃん」とできるように、もっとも大事なものを蓄えておく、それが「好きでいること」「こころから好きなものと暮す」ということなのではないでしょうか。
内側の「ウチ」は 生きるために必要な力です。
人生の中で、こころから好きなものを拾い集めて、尊敬を抱き続け、決して手放さず、
それらのものを裏切らない生き方を、と思います。
「好き」という気持ちほど、人を幸せにできることはないのです。
内側を「好き」でいっぱいにする。単純で明快ですね。
日々、手に包まれる食の道具である器が、食べることで使われ、
そして、外側の世界としっかりと渡り合っていくために必要な内側の力となれる・・・。
なんて素敵なことでしょうか。
うつわ祥見の展覧会が、そんな器との出会いの場であってほしいと願っています。
どうか、器を好きでいてください。
気持ちのよい風が吹く、縁側に素足で座って、
一休みしているような心持ちで、
ほどよい距離と、ほどよい関係で、
器を好きでいてください。
そして、繰り返される日々に、ともに生きた器といつか省みるときが訪れたなら、
「この器たちと生きてきた」と誇れるご自分であるように・・・。
支えてくれている存在、そばにいるものを、慈しみ、
変わらず愛していただければと思います。
わたし自身が、そういう自分でありたいと思うことを書き連ねました。
まだまだ、答えは見つからないですね。
でもね、「器が好き」でいる自分を育てている、と思うと気が楽になりませんか。
それでいいと思うのです。
土の器を暮すことで、その器を愛することで、感じられることがある、そして、その自分のこころを耕し、肉体が老いるまで、土の器とともに歳月を重ねながら、「器が好きという自分」を育てているのです。
愉しく邁進です。
朗らかに、日々、精進です。
それでよいではありませんか。