TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

見つめ、見つめられる、壺を。

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何をしていても、心のなかで、いつ何が起こるのかわからない時代に生きていることを実感いたします。
 
こんなとき、小さな人間の、無力さを感じずにはいられません。
 
わたしたちの祖先も、いつもこのことに怯え、憂い、悲しみ、一方で些細な日常のなかに喜びを感じ、大いに笑い、慰められ、絶え間なく続く時間を生きてきたのかもしれません。
 
いまできることが、いかなるときも大事ですね。
限りのある時を、いかに生きていくのかが、問われています。
 
うつわ祥見onariNEAR 尾形アツシ展を行っています。
 
初日、尾形さんが在廊されました。
 
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店内奥の棚によく焼かれた壺が目に入ります。尾形さんの有する薪窯焼成された力強く、複雑で豊かな表情があり、眺めるたびに見どころを発見できる美しい壺です。
 
今日は壺の話を書きたいと思います。
 
壺の起源は古く、小山富士夫の『壺』という本に、
古今東西、世界各地に伝わる素晴らしい壺が紹介されています。
 
わたしは時々、この古い本を手にして、
これらの壺の世界に見入ります。
 
作られた時代の背景や、作り手のおかれた状況や、なにもかもがつまっている壺のことを、タイムカプセルのようなものだと思うのです。
壺はどこか、慄然として、何かの力をもって出現した「モノ」のかたちを有しております。言いようのない説得力があり、見る者を魅了します。
 
悲しみや怒り。不安。自然への畏怖。
それらを沈める力をもっているような、力を、壺といううつわに感じるのはなぜなのでしょう。
 
そのあたりはもっと、言葉を尽くして、語りたいところです。

壺を生活のなかに取り入れる。
その壺は力強く、わたしの生きることを見つめるもの。
壺を見ているようで、
人は、壺に投影される自分の生命を見ているのかもしれません。
壺がわたしたちを見ている。
そんな感覚を覚える壺。
そんな作品に、人生のなかで、出合えることは、幸せなことだと思うのです。
 
壺は人の生活のなかで、どうしても必要ということではありません。
 しかし、この、行き先のわからない現代だからこそ、壺という存在を身近に置きたいと。
 
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薪窯で焼かれた土の壺は、無言ながら多くを語っています。
堂々として、ゆるぎなく、美しく存在しています。
 
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ぜひ、鎌倉にお出かけになり、
尾形アツシさんの壺を、じっさいに間近に感じてください。
 
わたしたちの生活に、きっと、
そういうものが必要なのだと、
いま、そう感じています。
 
またこのことを書きます。
 
今日もお元気で。
わたしも仕事をいたします。