器に泣く。
今日は一日冷たい雨が降っています。
昨日ぐらいからあまりに体が冷えるので、ストーブを出してきました。
毎年のことですが、このストーブを出そうかな・・・そろそろかな・・・まだ早いかな・・・と思う、その肌感覚を、今年はわたし個人の感覚で決めました。→家族の誰かが「寒くない?」と言い出したとか、気が利く夫が「ストーブ、出しておいたよ」というのではない・・・ということです。
大げさなようですが、この「感覚」というものが、とても大切なです。
皮膚で感じることは、体が感じることです。
ストーブを出す前の日、わたしはいつもの空間にいて、いくつかの原稿と、DMの入稿作業、来春のコンサートのプレスリリースを書いていました。足先が冷えて硬くなり、次第に肩から腕にかけて冷たくなって手先もかじかむようになりました。「寒い」というのは「暑い」というのよりも、じんわりと、身体と洋服の間を少しずつ侵食してやってくるような気がします。服と皮膚の間にある空気が少しずつ冷えていく。
ニュースでは「暦の上では立冬を迎えました」とキャスターが言う。
もう立冬かぁ・・・・と窓の外を見ると、曇り空の下の空気の中に、目には見えないグレーの小さな玉が浮かんでいるように感じる。この季節、北海道出身のわたしは、少々センチメンタルな気分になります。
さきほどの「感覚」ということに話を戻せば、器を伝える仕事をしている私にとって、この「感じる」ことがとても大事です。
器を手にとり感じられることと、目で見て感じられることと、この二つは、つまるところ同じだと思うようになりました。
つまり、手で触ってよい器だと感じる器は、目で見てもよい器だと感じるということ。
手で触った感じはいいのに、姿は(つまり目で見ると)よくない器というものはないのです。
分かりにくいかもしれませんね。分かりますか?
こういうシンプルでいて物事の真理をついているようなことは、それを「わかった」と言い切ってしまえば楽なのですが、なかなか言い切れるものではありません。
わたしはいつも、そのあたりを迷い、見つめ続けています。
しかし、先に述べた真理が何ゆえ真理であると言えるか・・・といえば、よい器には目で見えない何ものかが含まれており、目に見えないものが含まれているからこそ、完結されていて、手触りも見かけも「よい器」というものが存在するということなのです。手触りや見かけというのは実は二次的だということですね。
そういう器には、なかなかお目にかかれないのですが、時々、そうした器に出会うと、わたしは心から泣くのです。
一年に何度か、そういう器と出会い、泣くのです。
時々日本中にどれだけの「陶芸家」といわれる人がいるのだろうか・・・と考えるのですが、途方もない数の器が生まれてきて、果たして、さきほどの「目に見えないもの」が含まれる器がいったいどれだけあるだろうか、と思います。
名前がよく知られている陶芸家の方の個展に行ってがっかりさせられることも多い。
手が慣れてそこに安住しているのでは・・・と残念に思います。
わたしが器を作られる方に言いたいのは、
器を受け取る人をみくびってはいけません、ということです。
名前が先行して胡坐をかいている作り手に、「そういう心はすべて出てしまいますよ」と言いたいのです。
器にはすべてが映し出されるのですから。
逆に言えば、だからこそ、力のある器は真に人の心を打つことができるのだ、と、わたしは信じています。
「わたしは度々泣かされる」とは、昨年行った石田誠さんの器展のDMに書いた言葉です。
今年も泣かせる器が届くだろうか。きっと、泣かせてくれるだろう、と思います。
DM用にと送ってくれた器の中でも、正直、ぐいっと胸を鷲づかみにされた器があったことをご報告しておきます。
石田誠陶展
2007年11月15日(木)〜11月23日(金)
11:00〜17:00 会期中無休
くわしくは、うつわ祥見のホームページ
http://utsuwa-shoken.com