幸せな病気?
器を愛する皆さんへ
こんばんわ。
夜も更けて あと数十分で 今日が終わります。
夕方からNEARにいて、常設の器たちを眺めながら、これからの展覧会の打ち合わせをスタッフの神田と。
どちらともなく話題にのぼるのは先日の器の同窓会のことです。
「・・・それにしても、同窓会は素晴らしかったですね」と神田。
「皆さんに感謝しなくては・・ね」とわたし。
「いつもクールな印象の方も、器へも想いを語られたので 驚きました」
「そんなふうに思ってくださっていたということを知って、嬉しかったね」・・・と話はつきません。
少し前になりますが、展覧会の初日にいらした女性が真顔で
「ショウケンさん、わたしは重い病気にかかったんです」と言われたので驚いたことがありました。
重い病気という表現と、真剣な面持ちに、どんなふうな言葉をかけていいのか、躊躇していますと
「もう治らないと思うんです」とおっしゃるので、ますます どうお応えしてよいのか困ってしまいました。
でも、その深刻さが次の言葉で謎が解けました。
少しの間をおいてその方が「でも、幸せな病気なんです」と続けておっしゃったのです。
そこでやっと、この「重い病気」の正体が理解できて、ほっとしました。
「その病気なら、わたしは子供の頃からかかっていますよ。その病気のウイルス、わたしが撒き散らしているのかもしれません・・・」と言うと、
その方も笑って「でも、本当に幸せな病気ですよね」とおっしゃいます。
世間では「ウツワ病」とも言われる病気です。
わたしは本当に重病で、おそらく治療の方法もなく、完治は無理でしょうね。
器を求めてくださる方を「病気扱い」するなんてけしからんことだと思い、そう表現するのは控えていたのですが、
器の同窓会に出席くださった皆さんがご自分で「ウツワの病気」とユーモアたっぷりに話されるのを見て、
なんとも嬉しくなりました。
お出かけいただいた皆さんからは メールや、お手紙をいただいています。
そんななか、ただひとり男性でご参加された方から いただいたメールが とても嬉しいものでしたので紹介させてください。
みなさんの、器にまつわるとても豊かなストーリーをうかがい、
お一人おひとりが器をいつくしんでいらっしゃる気持ちが伝わってきました。
器はさまざまないのちをいただいて盛るもので、だからこそ暮らしの中心にいるのだなあなど、
先日ルーシー・リーを観たあとつらつら考えたりしておりました。
同窓会にいらした皆さんは、日々の生活そのものを大切になさっていらして、
単なる道楽や趣味の集まりと違い、地に足が着いた、というとおかしいですが、
実のある会だったと思います。
単なる道楽や趣味の集まりと違い・・・というところ、まさに膝をたたきたくなるような表現です。
「暮らし本」といわれる雑誌で ○○さんの暮らし なんて特集があったり、○○さんが好きな・・なんて特集がありますが、
わたしはどこかでそういう記事のウソっぽさが好きになれないところがあり、敬遠してしまいます。
スタイリッシュで小奇麗な作り物の誌面が苦手です。
そこで取り上げられる「暮らし」は手垢のついた言葉になってしまいましたが、
いや、そうではないんですね。器の同窓会で再会した器たちにはちゃんと「生きた匂い」「暮らし」が感じられました。
わたしたちの「暮らし」はわたしたちの毎日のなかに、ちゃんと、あるのだ、と。
そのことを器が証明してくれたように思います。
器は嘘をつきませんね。
使えば使うほど、器は頼もしく美しく、食べることを愛する気持ちは器のなかに表れてきます。
だから堂々と、朗らかに 「器を愛する人生は愉快である」と言いたいのです。
「ウツワ病」は幸せな病です。
わたしは喜んでこの「不治の病」の代表者として生きていきたいと思います( なんて、宣言するあたり やっぱり重症!です )
先日の小山乃文彦陶展の会期中に、男性の方が訪ねていらして、熱心に手に包んでめし碗を選ばれていきました。
「今日はどういうきっかけでいらしたのですか」とお訊ねしますと
「村上隆さんのラジオ番組で、話を聴いてです」(今年3月に行われたGEISAI大学でのわたしの講義の様子がオンエアされたのです)
「あの深夜のFM番組で?」
「そうです、夜中に聴いていて、感動して、すぐHPを調べて、これは行かなきゃと思ってきました」
器を愛する思いで話した言葉が電波に乗って、人のこころに届くこともあるんですね。熱い言葉も悪くないです。
これも最近の大変嬉しいことでした。
明日は秋に行う展覧会の準備のため 一日 鎌倉で仕事をしています。
では皆さん、今夜はこの辺で。
おやすみなさい。
明日も 好きな器で丁寧にごはんを食べましょう。こころ健やかに参りましょう。