TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

器、ひとつぶんの心の。

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明けましておめでとうございます。

ただいま、2016年1月2日深夜0時21分です。

新しい時間、新しい空気、新しい気持ち。

短くても、少しずつ、この場で言葉を書き留めていこうと思います。

 

さて、昨年一年も、仕事を通じて、多くの出会いがありました。

わかりあえた、と感じられる瞬間もあり、

振り返っても、そのひとりひとりの方々に出会えたことに感謝する気持ちでいっぱいです。

 

器を通じて、本づくりを通じて、あるいは音楽を通じて、

人はやはり愛しいもの、といま、素直に思えます。

 

このごろは、人間がいつまでも手放することができない、「憎しみを超えて」いこう、という気持ちについて、

「間」(ま) というものがそれに対抗できるのではないかと考えています。

ひとりの人間が自分の時間を丁寧に暮らすことができ、満ち足りる時間を過ごすことができれば、ひとつぶんの「間」が生まれるのでは、と。

「間」は、他者とのあいだの、程よい「間柄」を生み出します。

相手を凌駕することなく、敬いながら、接することができる、その「間」が、いま、この世の中に必要なのではないかと、思います。

 

私にとって、器を伝えることは、かわらず、日々の愛しさと気高さを伝えていく仕事です。よい器は、人のこころのなかに、ひとつぶんの「間」を作り出すものと信じています。器のなかにある「間」とは、ここで一言で言い表すことはできるほど簡単なことではありませんが、ひとつ、言えるのは、やっぱり、よい器には「のびやかさ」があるということでしょうか。のびやかさは、正々堂々としていて、頼れるものです。

ふとしたときに感じる儚さを繋ぎとめる力を持っているものです。

のびやかであり、朗らかであり、

人を励ます力がある器をこれからも伝えていきたいと願っています。

 

器と一日、器と一年。

積み重ねていくすべての時が愛しく感じられてなりません。

ひとつぶんの間を、いつもこころに抱いて。

丁寧に時を重ねていきたいものです。

 

こころより感謝をこめて。

 

祥見知生

 

今年も一年有り難うございました。

皆様、こんにちは。
クリスマスも終わり、いよいよ年の瀬が近づいて参りました。
皆様にとって、今年はどんな年でしたでしょう。
今年も大変お世話になりました。
うつわ祥見が企画する展覧会にお出かけいただいた皆様に心より感謝しています。
今年も印象深い展覧会が数々ございました。支えてくださる皆様のお陰で無事終えることが出来ました。
本当にどうもありがとうございました。


さて、私ごとですが、今月始めに足に怪我をいたしまして、
少し不自由な身体で年の瀬を迎えることになってしまいました。
この数年休みもなく動いておりましたので、
少し長めの「強制命令の休暇」をいただいたような気持ちで
明るく、大好物のみかんを食べながら呑気に過ごしております。
しかしながら、人間って、飽きるものですね。
はじめのうちは何もかも物珍しく、何事も前向き前向き、すべて自分の都合のよいように考えて、
これは神様のくださった休暇に違いない、と気楽に思っていたのですけれど、
だんだんこの状況に「飽きて」きてしまいました。
それで家族の者に「この自分に飽きてきた」とメールでこぼしましたら、
すぐに返信がありました。
「仕方ないね」と一行。
この「仕方ないね」が、実はとても胸に染みました。
いまの私にとって「仕方ない」はいたって潔く、見事に的確、公平な受容の言葉でした。
慰められ、諦められ・・・。
弱音も愚痴も、甘さも、スコーンと気持ちよく軽やかに、見事にどこかへ飛んでいってくれました。


さて、話題をかえて。
最近、つくづく思いますのは人の役割についてです。
「役割」。人はよく生まれてきた意味を考えるものですが、
そういう大切なことは考えてわかるものではなく、考えていることそのものに「意味」があり、
考え続けていくことこそに意味がある、と。
ヒントは「続けていく」ことなのでは、と。そう思うようになりました。
よく言われることですが、何事も継続こそに意味があるのです。
「継続」が意味を作っているとしたら、その続けていることこそ「役割」なのかもしれませんよね。
こんな人生は自分のものではない、もっと大切な役割があるはずだ、と世の中には憂いている方がいらっしゃいます。しかし「昨日したこと」と「今日していること」と「明日しているだろうこと」が繫がっていくと、つまり、続けていくことで他人にもそう見えるものが、人の「役割」なのではないでしょうか。立場と置き換えてもいいかもしれません。


どんな達人でも、人は幾通りもの人生は生きられません。
そしてひとりでは生活もできません。
自給自足。素敵な言葉ですが、そう万能ではありません。
わたしは最近日本酒を多少は呑めるようになり、
酒器のなかでも、ぐい呑みがいよいよ愛しく、その器でお酒を呑むたびに芳醇な味と香りにうっとりし、
なんて喜ばしいのだろうと思うのですが、
そもそもこの酒が出来上がるまでの蔵人の仕事や歴史をひとたび考え出すと、
その有り難さに気が遠くなる思いがします。
お酒はそれほどいただけない私でしたが、料理にはずっと純米酒を使っていました。
どんな料理にもコクと深みを与えてくれるので、毎回その仕事ぶりに惚れ惚れするのですが、酒も塩も砂糖も(うちには砂糖というものはないんですけれども)、鰹節も醤油も、なにもかも、その道のプロという方がいて、つまり、この仕事に関わり、毎日くる日もくる日も、このことを考え、身体を動かし、作っている方々がいらして、わたしの食卓は成り立っているのだなぁ・・と思いますと、本当に頭が下がります。感謝と賞賛を歌い上げる、食卓のミュージカルができそうです。
そしてここでも思いますのは、色々なその道のプロという方がいて、世の中は成り立っているのだということです。そのことは私にとっては相変わらず希望を与えてくれるのです。


同じ仕事を続けていますと、新鮮さが薄れてくることがあります。
いわゆるマンネリというものです。同じことの繰り返しや、あるいは何かを保ために守りに入ったが最後、志も、ときめきも、なぜそのことを始めたのかの「輝きのもと」も失われてしまいます。それでは続けていくことの意味も見失いそうです。
それでは誠に意味喪失であり、まったくもって、面白くありません。
だからこそ、身近に、志の高いものをそばに置き、たとえば今の流れで言えばお酒や塩ひとつ、または本や音楽、家具にいたるまで、尊敬する仕事を感じながら精神のよりどころを確保しておきたいのです。キーワードは続けていくこと、これぞ持続するエネルギーです。
先日もある番組で、天然塩を造られている家業の方が焚き上げる薪ひとつにも手を抜かず、守り続けているお話をされていました。そして「よい塩を造るには昔ながらの手法がいちばんなので続けている」と、誇らしい一言をコメントされていました。
本物の塩が美味しいのは本物だからなのですね。学びとはごく身近にあるものですね。



少し横道にそれましたが、来年の展覧会のスケジュールをまもなくお伝えいたします。
NEARの個展の顔ぶれは毎月毎月楽しみな方ばかりです。
またそのほかの展覧会については年間でほぼ決まってきていますが、
来年からそれらをいっぺんに発表するのではなく、時期が来たら、ひとつひとつお伝えしてくスタイルにいたします。
これまで拡大する方向であったものが一見縮小に見えるかもしれませんが、実は密度がさらに高くなって、情報量がとんでもなく含まれている・・。そういう仕事の方向でいこうと思っています。なるほど、おもしろいね、と見る人にはわかる、そういうことを目指そうと考えています。
うつわ祥見の企画する展覧会を楽しみにしていただけるように、裏切らないものを、と思います。作り手の皆さんとともにそんな展覧会を開きたいと願っています。


久しぶりの更新でしたのに、とりとめのない文章となりました。
onariNEARは1月29日まで。来春は1月4日よりオープンします。
2014年最初の展覧会は吉岡萬理展です。1月11日初日です。奈良から吉岡萬理さんがいらっしゃいます。
新年のご挨拶には年間スケジュールの印刷したカードと、萬理さんのDMとインタビューを同封いたします。吉岡萬理さんの力強く明るい言葉をぜひご一読ください。お出かけください。


年末年始、何かとお忙しいと思いますが、どうぞ皆様、よいお年をお迎えください。
新しい年も変わらず、器とともに朗らかに。うつわ祥見をどうぞ宜しくお願いいたします。

                               2013年12月28日  祥見知生

 小さな言葉

8月、最後の一日となりました。
鎌倉は朝から、かんかんかん・・・と甲高い音が聴こえてくるような、照り返しのある暑い日でしたけれど、
夕刻ともなると、海からふいてくる風が涼を運んできて、「夏の終わり」を感じさせてくれるのです。


さまざまな想いをのせて、2013年の夏は、もう、終わろうとしているのですね。

皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。


わたしの日常は、相変わらず、心配事と嬉しいこと、感謝と不満、悲しみと喜び、笑いと怒り、諦めと不屈、
すべてがミキサーで混ぜ合わされてスープになったような一皿のような、日々でありました。
かと言って、ひと月を振り返りますと、その中身は、濃いと言えば濃いのだけれど、わりと、あっさりとした、さらりとした・・・ものです。
この昨今の感覚は、自分でも不思議なのですが、
先頭に立っている我こそ、我・・・という感覚を身につけて、多少なりとも、生き方が苦しくなくなった成果といいますか、
それが、少し永く生きてきて得た、人生の、ちょっとした「発見」でもあったりいたします。


先頭に立つ我こそ、我・・・とはつまりは、先頭にいる自分が大事・・という話です。


何の先頭か、というと、誰かと比べての位置ではなくて、自分自身の先頭なんですね。
一分前でもなく、一分後でもなく、いま、たったいま、自分の先頭にいる「自分」が無事であることがなんて有難いのだろう、大事なのだろう、ということです。


そう考えていきますと、海からの風を待たずとも、あらゆる不平はどこかへ消えていきます。

さらりと、あっさりと、見事に。


そして、NEARにいきますとね、常設の器たちの、なんて、頼もしいことでしょうか。

力強くて、さりげなくて。かわいくて。

釉薬の清々しさ、無駄のないかたち、きりっと立つ姿の美しさ、力がほどよく抜けた愛らしさ、堂々とした存在感、やさしさ、穏やかさ、初々しさ、素直さ・・・。

それぞれの器たちが、それぞれの顔で、それぞれの個性で、ひとつひとつ。

その姿を見つめていますと、ああなんて器とはよいものなんだろう、と思います。



心のなかに風が吹いてくるのを感じるのです。


不思議なことですね。でも、あの小さな空間にいる器が、言葉を語らずして語りかけてくるものを、いったいなんて表現したらよいのでしょう。
ふだん身近にいても、いても、いても、いても、うまい言葉が見つからないのです。


言葉を見つからない一方で、
小さな言葉を、書くことにしました。


夏の間、少しですけれど、
うつわ祥見のWEBSHOPに新しい器をUPいたしまして、
そこに言葉を書きました。


ここでは、ひとつの器に対して、その子(器)への言葉を書くことをしています。


画像で伝えられることは限られていますが、
それでも、たとえば、NEARに訪れた皆さんが、ふと、その器を手に取られたときに、お話させていただくような言葉を
画面の先にいらっしゃる方にお伝えすることができるのでは、と考えました。


指先で次々に画面を変えていくスピードでは、伝えきれないものが、
この、作り手のいる器の、もっとも素晴らしい魅力といいますか、
存在理由なのです、つまるところ・・・。


そんなことを考える夏の夕刻です。
今日も日暮れて、
遠くて近い、明日がやってきます。

九月。わたしたちの国の、四季のなかでも、豊かな実りの秋。
食卓は、人が、もっとも、愛する場所ですね。
食を見つめることは、いまの自分を見つめることですね。
一瞬一瞬を抱きしめるように、朗らかに、明るくありたいものです。


さて、9月になりましたら、一か月ぶりの展覧会が控えています。
初めて、うつわ祥見で、古いやきものの展覧会を開きます。





くわしくは、うつわ祥見のサイト http://utsuwa-shoken.com をご覧ください。

また近く、この展覧会についてはこの場で書きたいと思います。

ともに生きていく

7月最後の一日、そろそろ夕食の買い物をしなければと家を出て、
鎌倉の夕方の気温はそれほど高くないことに気をよくして、
車に乗らず、一つ先の駅まで歩いてみました。
約束の時間もないので、歩くスピードは速くする必要はありません。
ただ、歩きたかったから歩く。日が暮れた町のなかを。
行き過ぎる景色は見慣れたものですから、発見という発見もないのですが、
それでも、頬にあたる風の流れを感じながら、歩きますと、
なんということのない「歩く」行為が、なんて幸せなことだろうと思いました。
自分の足で歩く。歩を進めることが、うれしい。
文月の夜に、わたしはひとり、着慣れた服でサンダルの姿で、そう、実感しておりました。
変ですね。



うつわ祥見の2013年、上半期の展覧会スケジュールがすべて終了しました。

1月 祝 生誕50年 吉岡萬理展
2月 村木雄児 黒の仕事
3月 吉田直嗣 LIFE展
慈しみの器 愛しき骨壷展
巡る器 旅する器展 東京・国立新美術館地階 SFTギャラリー
4月 尾形アツシ 薪の仕事 土化粧の器展
   巡る器 旅する器展 高松・まちのシューレ
  矢尾板克則 YAOITA WORLD 展
5月 横山拓也 器、或いは旅、結論なき・・展
6月 小野哲平展
石田誠 まことのマコト展IN 札幌 札幌・Cholon
7月 巳亦敬一 硝子のうつわ展
  うつわ、手に包むもの、愛しいもの展 那須・SHOZO CAFE

 

振り返ってみましても、どの展覧会も、力のこもった器たちが集っていました。

それぞれの作り手の「いま」を皆さんとともに共有できたように思います。

お出かけいただいた皆様、本当にどうもありがとうございました。



最近、ある方のお住まいに招かれて、「器の家庭訪問」に行ってまいりました。
「器の家庭訪問?なんのことですか」という感じでありましょうが、
招いてくださったのは、うつわ祥見のオープン間もないころから、展覧会のたびに訪ねてくださった姉妹の方です。
当時は、お二人とも別々にひとり暮らしをされていたので、ひとりずつ自分の好きな器を集められていらしたのですが、
4年ほど前に、海のある歴史ある町に、ふたりで一軒家を借りて住み始められたのです。
「いつの間にか、ほとんどの器は、うつわ祥見で選んだものですよ」とうれしいことをおっしゃるので、
「一度見てみたいなぁ」とお伝えすると、「ぜひ、遊びにきてください」ということになりまして。

それから数年がたち、今回、やっと、その訪問が実現したのでした。

鎌倉から在来線の電車に揺られ、ちょっとした遠足気分です。
夏休みを先取りしているような気持ちで、うれしい胸の高鳴りを感じました。

食卓には、地元で採れた野菜のお料理がずらりと並びました。
皿も鉢も片口も、小皿も、ぐいのみも、湯呑みも、何もかも・・・。
器たちは、本当に愛されて、よい顔をしておりました。

わたしは胸がいっぱいでした。



一年ずつ季節が巡り、年を重ねていくことで、
新しい器が少しずつ増えて。
家の守り神が台所に住むように、もしかしたら、土の器はこのおふたりを見守ってきたのではないだろうか・・と、ふと思いました。

人間の幸せ、というのは、簡単に言葉にできないものですが、
確かに、その食卓にあったものは、
人が食べる、その繰り返しのなかで、人と器の親密な関係、信頼と呼んでいいものなのではないかと思いました。
それは、ひとにとっても、器にとっても、何より幸せなことだと、信じられるのです。

このことを、実は、夕方、高知の哲平さんにも電話で話したのでした。
哲平さんも、言葉少なく、頷いていらっしゃいました。

器は人の時間とともに生きていくものですね。

何気ない日常のなかに、しっかりと、息づいている。

わたしは器たちを時々、抱きしめてあげたいと思います。



いま生きていくことは、苦しい現実のなかで逃げるわけにもいかず、かといって何も変ええる力もなく、
時々、とてつもない無力感にさいなまれることがありますが、それでも、食べて、笑って、眠って、淡々と生きていきたいものですね。


明日から8月。暑い日々がまだ続きますが、どうぞお元気で。


onariNEARは常設の器たちをご覧いただけます。
そして、WEBSHOPでも、とびきりよい器をご紹介していきます。


9月の展覧会は、うつわ祥見初めての「古いやきもの」を展示いたします。
またくわしくはご案内いたします。

9月7日(土)〜9月16日(月) UTSUWA Bon Antiques 展

時を経て存在を放つうつわの美しい姿をご覧いただきます。

どうぞお楽しみに。

小野哲平展によせて 『DVDブック うつわびと小野哲平 』あとがき 掲載

生きていると、毎日、生まれてくる言葉があります。

そのとき、その瞬間の気持ち。

それは、毎日空に浮かんでは消えていく雲のように、とらえどころのない「かたち」をしていて、ひょいとつかみ、手元においておくこともできないものです。

でも、言葉が、ひとつひとつ生まれてくるのには 理由がある。

子供がお腹が空いたと泣くのも、あれは、言葉なのです。あれがほしいと駄々をこねるのも、言葉なのです。

言葉はお節介で、気ままで、ときには、誤解をされ、足をすくわれたりいたしますが、それでも大事なのは、「ほんとう」であること、心から真実であることではないか、と日々思って暮らしています。

さて、こんな書き出しになりましたが、

みなさん、お元気でいらっしゃいますか。



onariNEARでは6月22日〜30日まで高知在住の小野哲平さんの展覧会「小野哲平展」を開催いたします。

この展覧会によせて、うつわ祥見の小さな出版物「TABERUBOOKS 」では『Teppei book』を刊行することになりました。

高知県の棚田の広がる山あいに工房を構え、器をつくる小野哲平さんの工房を訪ね、撮影したのは鎌倉在住のカメラマン大社優子さん。



20ページほどの小さな冊子です。


この写真のなかで、わたし自身何度も数えきれないほどお伺いした工房のある、高知県の山あいの棚田の風景に、何か短い言葉を書こうと 試みたのですが、

どうしても、その写真に、言葉を添えることができませんでした。


もちろん、「言葉」は生まれてくるのです。しかし、その言葉を写真に載せることはできない。

しばらく、写真とにらみ合いを続けて、ここは余計な言葉を添えるのはやめよう、と思い、そうしました。


その写真は、大社さんが、棚田の朝の風景をとらえた美しいものでした。

遠くに太平洋が望める山あいの集落。雲が眼下に生まれてくるのが見えます。

わたしはその風景を何度も実際に見てきましたし、小野哲平さんはここに暮らし、毎日、この風景を目にされて、仕事を続けているのです。

小さな冊子づくりで写真の大社さんとやりとりを進めていた時間、とても短い時間でしたけれど、ふと、かつて制作した『DVDブック うつわびと 小野哲平』を手にしました。

掲載されている「あとがき」を読みました。

いまはもう手に入りにくくなった一冊です。 

2006年、強い想いだけが先行して一年間 高知の山に通い、薪窯に向かう姿を追いかけた当時のことを 思い出します。

ツイッターフェイスブックもない時代です。

この本の存在など知る人は本当に少ないですし、実際に手にされた方はごくわずかな方でありましょう。

だから・・というわけではないのですが、

「あとがきにかえて」と題したこの文章を、もう少し多くの方に読んでいただきたい、といまの私が思うのです。



小野哲平さんからは先日、メールが届きました。



「お疲れさまです。
 梱包 終わりました。
 作品数は399点。
 (この地に窯を構えて) 30回めの窯、渾身の仕事です。
 今回は、窯たき直前に窯の天井が落ちているのがわかり 
 職人さんを急きょ探して直してもらって 若い子たちに助けてもらい
 なちおのごはんに力をもらって、一仕事できました。感謝です。」 



本来、隔年で展覧会をお願いするのを、「哲平さん、いまこそ、東で、もっと展覧会をやるべきじゃありませんか」と伝えて実現する展覧会です。

震災後の日本で、言葉に真実が必要とされているように、食の道具である器に求められているものはなんでしょうか。

ぜひ、土の器に会いにいらしてください。DMの鎬の器は新作です。薪の仕事をぜひご覧ください。


小野哲平展 
2013年6月22日(土)〜6月30日(日)
初日22日 小野哲平さんが在廊します。



このあと掲載する文章のなかで、以下の一文は、当時、わたしが取材を通じて、土の器を身体で学んで言葉にしたものです。


器は土と、火と、そして人の手から生まれる。器は食の道具であり、食はわたしたちの心と身体を作るものだ。

土や火という生命のもととなるものの力が結びつき、器を作る。そうして作られた器は「食」を通じてわたしたちを支えている。

中略

・・・・・さらには土や火という生命のもとになるものをこの手に包むことができる。



少々長いと思いますが、ご一読ください。

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DVDブック うつわびと 小野哲平
あとがきにかえて


器を手にとり、その重さ、手触りを確かめる時、わたしは器を見ているようで実際は特別な何かを見つめている。特別な何かはいつも器の奥に沁みこみ、こちらをじっと見ている。

もちろんそんな感覚はどんな器にも起こるのではない。使われて水分が土に吸着し、また乾き、また使われ、人の手がちょうどよくなじんだ頃、器は出合った時よりもさらにその存在の大きさを広げている。
色やかたちを超えて迫ってくる。迫ってくるものとはなんだろうか。
今回のインタビューで、その目には見えないものについての話を掘り下げてみたいと思った。
器の技法釉薬の種類を細かに訊ねることはしていない。それよりももっと器の成り立ちのもととなる話を聞くことに時間を費やした。
話はおのずと現在にいたるまでの道のりが中心になった。
1980年代後半、日本がバブル経済に浮かれていた時代、小野哲平は苦しんでいた。
器を作りそれをお金に変えることに疑問を感じていた。「土を触り手は器を作る。けれど何のために作っているのか」。器を作る意味を探してもがいていた。
独立してまもなく彼は生まれたばかりの赤子を連れて旅に出る。
タイやインド、ネパールなどアジアの国々を旅する。民の力で国を変えようと、生きるための芸術活動をするアーティストと出会う。
そして、各国で土を触り器を作った。旅は長く8ヶ月におよんだこともある。
日本の拠点であったやきものの街・常滑で器を作ることを「日本に出稼ぎにきていると思うと楽だった」と当時を振り返り、そう語る。
しかし、彼の心の拠りどころであったアジアへの旅はこどもの成長・就学とともに思うように動けなくなる。身動きがとれなくなっていった時、彼は日本で自分の場所を作ることを決意する。
そうして巡りあえた土地には古くから残る石垣があった。石垣は人の暮らしの智恵、棚田で米を作る人々が住む美しい集落の、生きる根っこである土を支えていた。
はじめに工房を建て次に母屋を建てた。そして3年の歳月をかけて薪窯を作った。

移り住んで9年が過ぎた年、一家は頭屋(とうや)の役目を担った。
頭屋とは、集落にあるいくつかの神社で行われる祭の世話役のことを言う。
たとえば宇賀祭の神は、穀物を主宰する宇賀之御魂神を主として、土の神、火の神、風の神、水の神らを祭り、祭壇には、土や水、火、五穀、絹、綿、麻などを調え、御飯、御酒そのほかの供え物をする。
頭屋は祭主をつとめる神職のお世話をし、村人にも料理をふるまう。
祭は年に数回にわたって行われ、そのたびに頭屋の小野家は大忙しだった。
頭屋の仕事について話す時、彼はなんとも気持ちよさそうな顔をする。頭屋の役割を通じて、彼はこの地がより好きになったのだ。

本来ものづくりをする人間はあまり多くを語らないものだ。彼らは作品を作ることで自分の考えを伝えている。自分が美しいと思う尺度でものづくりをする。
そして作品を通して世の中にものを言っている。
自分が前へ前へと攻撃的に己を示すことで表現してきた時代を経て、彼はいつしか暴力では何も変えられないことを知った。
そして叙々に器にこめるものは使う人が穏やかな気持ちになってくれたらという思いに変わってきたという。
社会は暴力によって変わるのではなく政治の力で変わるのでもない。では何によって変わるのだろうか。
おそらく小野哲平が信じているのは、一つのやきものが世界を変えられるかもしれないということである。やきものにはその力がある。
これはわたしにとっても経験から学んだことだが、心揺さぶられるやきものと出合い、そして心から美しいと思う器でちゃんとご飯を食べる、そこから変わる何かがあるのではないか。
器は土と、火と、そして人の手から生まれる。器は食の道具であり、食はわたしたちの心と身体を作るものだ。
土や火という生命のもととなるものの力が結びつき、器を作る。そうして作られた器は「食」を通じてわたしたちを支えている。

この本の取材で最後に谷相を訪れた時、工房の前に椅子を用意し、棚田を背中にインタビューを行なった。
「棚田ってどうしてこんなに美しいのだろう」途中、ふと彼がそんな言葉をもらした。
「本当に美しいよね。普遍的な美しさってこんなことを言うんだろうね」。わが子を慈しむような、あるいは母を慕う子供のような、そんな言葉の響きだった。
工房の窓から棚田が見える。そこには先人たちから受け継いだ田畑を耕す人々がいる。そして彼は食の道具である器を作る。
お金の価値ではなく、権威や名誉でなく、器を作る目的を小野哲平は生きることに求めたのだと、この本の制作が終わりに近づきわたしは思う。
そして彼はこれからもアジアへの旅や谷相で暮らす日々を自らの心の風景として蓄え、器を作り続けていくだろう。
その器を通じて、わたしたちは心のあるものを受け取り、さらには土や火という生命のもとになるものをこの手に包むことができる。
暮らしは流行ではなく、日々はスタイルではない。暮らしとは生きることなのだ。そのことを、小野哲平の器はわたしたちに今、示しているのではないだろうか。


この本の制作にあたって、小野哲平さん早川ユミさん、お二人には大変お世話になりました。心から感謝申し上げます。


                                                    
二〇〇七年 早春 祥見知生


『DVDブック うつわびと小野哲平』 ラトルズ刊
 
 写真と文 祥見知生
 映像   工藤晶彦
 デザイン 亀井啓太
 2007年4月25日発売

 ※掲載した文の無断掲載は禁じます。どうぞご理解ください。

                                                                                                                                                                                                                                                                                • -

 

骨壺展によせて 皆様へ

皆様、お久しぶりです。

なんて「お久しぶり」なのでしょう。

大変ご無沙汰をしておりました。

本当にここに戻ってくるまでに長い時間がかかりました。

もちろん、これまでの間、変わらず仕事をしていました。

ここに書き記すことがなかった多くの時間、展覧会を通じて、あるいはそのほかの機会を通じて、

多くの皆さんと実際にお会いし、たくさんの言葉をかわしました。

その時間の積み重ねがあって、いまのわたしがあります。

いつもそのことに感謝しています。

いつも本当にどうもありがとうございます。


さて、今日は3月15日。

時計が0時を回って、日付が変わったばかりです。

本当はこの日記を再開するにあたって、皆さんにお伝えしたいことがあったのですが、
今夜はそのことを書く時間はあまりないようです。

さきほど、ツイッターにもつぶやいたのですが、

明朝出かける高知行の荷物がまだこの時間でできていないのです。

これから準備をいたします。

でも、今日のうちにこの日記を書きたい理由があり、少し急いで書き綴ってみます。

というのも、あさって初日を迎える「慈しみの器 愛しき骨壺展」について、

ホームページよりももっと多くの言葉で、この展覧会について お伝えしたいと思ったのです。


少し長くなりますが、ぜひ読んでみてください。




食べる道具である器を伝える仕事を始めてから、明日をもっと、いきいきと生きていくために、骨壷展を開きたいと、願ってきました。

なぜ骨壷なのか、の問いに答えるならば、限られた生の時間をより愛するために、
死を、受け容れ、遠ざけることなく、できるだけ朗らかにありたいと願うゆえ・・となりましょうか。

骨壷を「うつわ」として考えることは、そもそも「うつわ」とは何かを考えることと同じ延長線上にあります。

うつわとしての骨壷、それは生きて使う器とは何かを追求していくことの「地つながり」であると思っています。

わたしが伝えたい「骨壷展」のテーマは、「生と死は一体であること」を、器というものから語りかけることです。
死者のための「骨壷」から、生きて故人を偲ぶこころに寄り添い、より生きていく者の「うつわ」へ。

残された者に必要なものとして、眼を向ける相手を変えてみると、はっきりと今回の骨壷展の展覧会名に掲げた「慈しむ」という言葉の意味がさらに重層的に感じられます。

展覧会は「求められている」から行うものですが、しかしそれは「流行」の類のものではありません。

「求められている」のは未来永劫普遍的なテーマであることが必要です。

そしてどのテーマであろうと、根底には、人が明日を生きていくために、力となるもの、はげましとなるものでありたいと願っています。

骨壷は、慈しみの器です。そしてそれは「生きる」ことを最大限に肯定し、死を受け容れて、包みぬく優しさに満ちたものであってほしいと願います。

そしてこの展覧会は「骨壷の見本市」などではなく、「人の一生とはこうであってほしい」と願う気持ちを素直にあらわした自由なものであるべきだと考えます。

毎日、手に包む器があるように、自ら美しいと思う、愛しいと思う器と、ともにありたい。

生きることを慈しむからこそ、最期に包まれる器を、納得のいくもの、信頼のできるものを選びたいと願うのです。

慈しみの器。愛しさを包むもの、骨壷。

この困難な時代をともに生きている、うつわの作り手による骨壷展を開き、普遍の主題を朗らかに、作り手、使い手の多くの皆さんと、ともに考える機会になればと願います。

このたびは、ご縁をいただいた高知県五台山にある竹林寺での展示をいたします。

その後、週を変えて、鎌倉御成町の onariNEARでも 展示いたします。

onariNEAR 2013年3月24日(日)〜3月31日(月)会期中休3月26日(火)27日(水)

ぜひお出かけになり、ご覧ください。

心よりお願い申しげます。




「慈しみの器 愛しき骨壺展」

会期 2013年3月16日(土)〜3月20日(水)
会場 高知 五台山 竹林寺 高知県高知市五台山3577 
時間10時〜16時 
問い合わせ 五台山竹林寺 088-882-3085
企画 うつわ祥見 http://utsuwa-shoken.com



出展作家
石田 誠 (松山) 尾形アツシ (奈良) 小野哲平 (高知) 山野邊孝 (福島)
小山乃文彦 (常滑) 升 たか (神奈川) 森岡由利子 (和歌山)
吉岡萬理 (奈良) 矢尾板克則 (新潟) 


関連イベント/ 
2013年3月16日 「こつつぼの話」
竹林寺・海老塚和秀住職と作家・いしいしんじさんのトークイベント
16:30 スタート 参加費1000円 予約不要 
問い合わせ 五台山竹林寺 088-882-3085


巡回展 
会期
2013年3月24日(日)〜3月31日(日)    
営業時間12:00〜18:00
場所
utsuwa-shoken onari NEAR
神奈川県鎌倉市御成町5-28 TEL:0467-81-3504

 皆さまにありがとう。

こんばんわ。

7月も最終日。

もうあと数時間で、7月最後の日が終わります。

日本列島がすっぽり亜熱帯になったように、連日 猛暑が続きますね。

皆さま 体調を崩されてはいませんか。


日記を書こう書こうと思いながら、今日になってしまいました。

7月の濃厚な日々。

少し、肩の力を抜いて、日々を振り返りたいと思いながら、
この「日記」というかたちではなく、何かに書き留めたいと思う気持ちがどこかにあるのです。

できれば少し長い文章を書きたいんですね。

そして、その言葉を多くの方に見ていただきたい。

次の本ではまとめて文章を書きたいと日に日に強くなる思いがあり、きっと、その場で、
この年の7月のことを書くのだろう・・・と、そんな予感がいたします。



写真は高知のセブンディズホテルプラスのロビーで 器の同窓会に出席の皆さまと記念撮影。
うまい具合にピンボケですので ご掲載 お許しください。

遠くは札幌、福岡、新潟、千葉、神奈川から そして四国・愛媛から香川から、地元・高知から・・お出かけいただいた皆さん

本当にありがとうございました。

高知の美味しい料理と、そしてサプライズで 当日急にこの会のために 松山から来てくださった石田誠さんとの楽しい時間。

忘れえぬ時間となりました。

皆さんが大事にお持ちになった器のひとつひとつ、わたしは決して忘れないと思います。



これからも 器とともに どうか一緒にいてください。

器とともに、幸あれと願っています。

器という、人の手に包まれるものを、もっと信じていこうと思います。

日々こそまこと。

明日もよい一日でありますように・・・。

時刻はもうすぐ深夜0時を過ぎて 今年も8月ですね。

高知県立美術館で開催中の『TABERU 日々のうつわ 手に包まれる食の道具』を記念して、

8月4日には 美術館ホールにて 大貫妙子さんのライブが行われます。

心の奥まで染み入る、大貫さんの歌声を、木のホールで。

ぜひ皆さま、器の展覧会を見たあとで ゆっくりと大貫さんの音の世界に浸ってください。

大貫さんは自ら米づくりをされるなど、環境問題にもいちはやく取り組んでいる日本のトップシンガーです。

高知県では、2010年に牧野植物園でライブを行いましたが、
そのときはアコースティックな歌声に皆が聞き惚れて、拍手が鳴り止まなかったのです。
その感動をもう一度。ぜひお出かけください。


トークの聞き手は濱田亜弥さん。濱田さんはもとテレビ高知のアナウンサーでいまはフリーで活躍されています。

トークでは、大貫さんが大切にされている暮らしのまなざしをお伺いします。

なぜ、米づくりを始められたのか、素朴な疑問にも答えていただく、貴重な機会になることでしょう。


坂本龍一さんと取り組んだ『UTAU』や、ファンの方にはお馴染みのアコースティックな名曲を。

チケットは高知県立美術館ミュージアムショップ(088-866-8118)や、terzo tempo(080 6559 2013)
で取り扱い中です。

ぜひお出かけください。