TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

 小さな言葉

8月、最後の一日となりました。
鎌倉は朝から、かんかんかん・・・と甲高い音が聴こえてくるような、照り返しのある暑い日でしたけれど、
夕刻ともなると、海からふいてくる風が涼を運んできて、「夏の終わり」を感じさせてくれるのです。


さまざまな想いをのせて、2013年の夏は、もう、終わろうとしているのですね。

皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。


わたしの日常は、相変わらず、心配事と嬉しいこと、感謝と不満、悲しみと喜び、笑いと怒り、諦めと不屈、
すべてがミキサーで混ぜ合わされてスープになったような一皿のような、日々でありました。
かと言って、ひと月を振り返りますと、その中身は、濃いと言えば濃いのだけれど、わりと、あっさりとした、さらりとした・・・ものです。
この昨今の感覚は、自分でも不思議なのですが、
先頭に立っている我こそ、我・・・という感覚を身につけて、多少なりとも、生き方が苦しくなくなった成果といいますか、
それが、少し永く生きてきて得た、人生の、ちょっとした「発見」でもあったりいたします。


先頭に立つ我こそ、我・・・とはつまりは、先頭にいる自分が大事・・という話です。


何の先頭か、というと、誰かと比べての位置ではなくて、自分自身の先頭なんですね。
一分前でもなく、一分後でもなく、いま、たったいま、自分の先頭にいる「自分」が無事であることがなんて有難いのだろう、大事なのだろう、ということです。


そう考えていきますと、海からの風を待たずとも、あらゆる不平はどこかへ消えていきます。

さらりと、あっさりと、見事に。


そして、NEARにいきますとね、常設の器たちの、なんて、頼もしいことでしょうか。

力強くて、さりげなくて。かわいくて。

釉薬の清々しさ、無駄のないかたち、きりっと立つ姿の美しさ、力がほどよく抜けた愛らしさ、堂々とした存在感、やさしさ、穏やかさ、初々しさ、素直さ・・・。

それぞれの器たちが、それぞれの顔で、それぞれの個性で、ひとつひとつ。

その姿を見つめていますと、ああなんて器とはよいものなんだろう、と思います。



心のなかに風が吹いてくるのを感じるのです。


不思議なことですね。でも、あの小さな空間にいる器が、言葉を語らずして語りかけてくるものを、いったいなんて表現したらよいのでしょう。
ふだん身近にいても、いても、いても、いても、うまい言葉が見つからないのです。


言葉を見つからない一方で、
小さな言葉を、書くことにしました。


夏の間、少しですけれど、
うつわ祥見のWEBSHOPに新しい器をUPいたしまして、
そこに言葉を書きました。


ここでは、ひとつの器に対して、その子(器)への言葉を書くことをしています。


画像で伝えられることは限られていますが、
それでも、たとえば、NEARに訪れた皆さんが、ふと、その器を手に取られたときに、お話させていただくような言葉を
画面の先にいらっしゃる方にお伝えすることができるのでは、と考えました。


指先で次々に画面を変えていくスピードでは、伝えきれないものが、
この、作り手のいる器の、もっとも素晴らしい魅力といいますか、
存在理由なのです、つまるところ・・・。


そんなことを考える夏の夕刻です。
今日も日暮れて、
遠くて近い、明日がやってきます。

九月。わたしたちの国の、四季のなかでも、豊かな実りの秋。
食卓は、人が、もっとも、愛する場所ですね。
食を見つめることは、いまの自分を見つめることですね。
一瞬一瞬を抱きしめるように、朗らかに、明るくありたいものです。


さて、9月になりましたら、一か月ぶりの展覧会が控えています。
初めて、うつわ祥見で、古いやきものの展覧会を開きます。





くわしくは、うつわ祥見のサイト http://utsuwa-shoken.com をご覧ください。

また近く、この展覧会についてはこの場で書きたいと思います。