TOMOO SHOKEN

うつわとともに 祥見知生

シーサー君の笑顔・・

みなさま

こんばんは。

萬理さんロスの祥見知生です。

 

一年の最初の展覧会は吉岡萬理展。

奈良で作陶されている吉岡萬理さんは、ちまたでは、フウテンのばんりさんとの異名もある(ご自分でそう言ってみたいです)旅する陶芸家です。

御自分の車で西へ東へ。

個展のたびに器とともにギャラリーの街へめざし運転し、自ら搬入し、そして初日、疲れを見せず笑顔で皆さんを迎えいれる方なのです。

今回は1月9日土曜日に初日を迎え、夜はうつわ祥見の新年会に、続いて翌日翌々日、連休の三日間、ずっとギャラリーに出てくださいました。素晴らしい。

そして昨日の夕刻、とても爽やかな笑顔を残し、奈良へ帰って行かれました。

 

寂しい。

 

いまの心境を一言で言いますと、この言葉につきます。

 

愉しい時間はすぐに過ぎてしまいます。

 

大切なことは目に見えないけれど、大事なことは心に深く刻まれるものですね。

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滞在の期間、吉岡萬理さんの作品や、人間の大きさに学ぶことが多かったです。

沸き上がる思いから作られる作品は、誰にもマネのできない、本当の意味のオリジナルであり、これこそが芸術の力だと感じられる瞬間が多々ありました。そういう力のある作家の作品を伝えられることは、ギャラリーとして最大の喜びです。

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「うつわを使うたびにあなたを思い出す」

たまたま通られて色絵の器を求められた方が、萬理さんにおっしゃった言葉です。きっと、同じように感じられる方がたくさんいらっしゃることでしょう。

 

めっぽう明るく、人を励ます仕事を、吉岡萬理という陶芸家は仕事にされています。

使われてこそ、器であること。

そしてそこに、何人も攻めずに包むユーモアと笑顔があること。

 

根底に深い思いがあるからこそ、そこから放つ光が淀むことなく澄み切り、周囲を明るく照らすのですね。光は届くのですね。

 

器は人。器は心で感じること。

作り手はそこにいつもいてくれるのだと思います。

(シーサー君は実は萬理さん自身なのですね)

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うつわ祥見の新年会に出席してくださった皆様、遠方よりお出かけ頂いた皆様に改めて感謝をいたします。今年の抱負に、淡々と日々を過ごしたいと皆様が同じように言葉にされていました。

 

器と一日、そして器と一年、ですね。

 

私もこの、日々というもののかけがえのなさに

感謝して、器を信じていこうと思います。

 

吉岡萬理展は1月18日月曜日まで開催しています。

ぜひ、たくさんの萬理さん(シーサー君を含む作品たち)に会いにいらしてください。

きっと、心が軽やかになりますから。

 心よりお待ちしています。

 

 

 

“希望”ってなんでしょう ?

こんにちは。鎌倉は青い空が広がっています。

1月4日 今年の仕事始めの方も多いことと思います。

 

ただいま、東京・代官山蔦屋書店にて、高知で作陶する小野哲平さんの初めての作品集『TEPPEI ONO』の刊行を記念して、「小野哲平作品展」を行っています。作品集から初期の作品と新作の器が特別展示されています。

 

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什器は京都の和紙作家のハタノワタルさんの作品です。器はうつろなるもの、入れものとしての器から「新たなものがたりが生まれてくる余韻」を感じさせてくれる展示台を作ってくださいました。とても美しい什器です。

 

書店という紙を扱う場所は、ジャズ喫茶がかつてスピーカーから流れてくる重厚な音を空間に染み込ませていったように、紙という、原始の素材から漂う気配を複層的にまとって、独特の空気が生まれてくるものですね。代官山は東京でも珍しい地下に水脈がそのまま残っている清らかな地です。そこに建つ書店の一角に、土や火という原始の力から生まれた器が並んでいる景観は、何か、独特の「気」が流れているように感じられます。人と原始の素材、それらが交差して出来上がり、組み合わさって醸し出しているもの。美しい交差、と感じられるのです。

今回急に決まったこの特別展示に際し、ハタノさんにこの場の什器をお願いいたしました。2400㎝の長さのある什器を京都から都内に運ぶのは大変なことで、年末の多忙な時にこの大仕事も含めて、展示協力を快く受けてくださったハタノさんに心から感謝をお伝えしたいと思います。展示の什器も販売していますので、ぜひ、みなさま、ご覧ください。

 

また、空間の壁には、若木信吾さんの写真が掲示されています。大きく出力したポスターの合間に貼られたオリジナルプリントは、写真家自らが壁に掲示されたもの。ぺたぺた・・・自由に貼っていったという具合の、かろやかで愉しいものです。写真は作品集には掲載されなかったものが多く、この本の制作において初めて若木さんが訪れた工房での写真を見ることができます。もちろん、それらの写真のセレクトは若木さんにお任せしました。小野哲平さんの作陶の姿とともに、哲平さんの笑顔の写真が多いです。

 

常々、陶芸家・小野哲平さんの魅力は、厳しく鋭い眼光とともに、あたたかく包む人懐こい笑顔にあると思っていました。

 

器は人の手が作り出すもの、どんなに消そうと試みても、器は作り手を映すものですが、作品集のなかに綴られた正直な言葉と、若木さんが撮影された笑顔のプリントを見ていますと、展示されている器が、ますます魅力にあふれ、まるで「だいじょうぶ、心配ないよ」と笑っているように感じられて嬉しくなりました。

 

ああ、超えていける。

 

と短く思うのでした。何が超えていけるのか、ああ、それはあまりにも複雑で言葉にしがたいものなのですが、

 

ふと、この本の帯を見ますと、そのひとつの答えがここにもう既に用意されていたようです。

 

 

“希望”ってなんですか ?

 

小野哲平さんの初めての作品集『TEPPEI ONO』、この書籍を包む帯に言葉を寄せてくれたミュージシャン・ハナレグミこと永積崇さんが書いてくれた言葉です。

明後日1月6日に行われる『TEPPEI ONO』刊行記念トークショーでは、本が生まれたいきさつをお話する予定でいましたが、すでに行われた京都の恵文社ではトークのテーマとして「なぜつくるのか」を掘り下げていったのに対し、今回はこの言葉について、哲平さんとともにお話したいと思っています。

 

さて、希望って、ほんとうに、なんでしょう。

 

この帯の言葉について、深めていきたいと思います。

 

トークイベントは19時半スタートです。この帯の言葉を書いてくれたハナレグミも、京都に続いて、哲平さんの友人としていらっしゃい、トークに参加してくれます。

 

新年早々のお誘いになりますが、

ぜひいらしてください。

また、会場では、初公開のうつわラジオが設置されています。

DJカチカイゾウ氏による、小野哲平さんインタビュー、ぜひヘッドフォンでお聞きください。トークイベントではDJカチカイゾウ氏に会えますよ。

 

ゆっくりお会い出来るのを楽しみにしています。

 

うつわ祥見  祥見知生

 

 

 

 

吉岡萬理さんからのメッセージ 「諦めない」神様、シーサー君のこと

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お正月も三が日か早くも過ぎていきました。

子供のころは、この三日の夜というのが苦手だったものです。

ハレの日が終わるのは、日常に戻っていくルールをきちんと受け入れ、

社会の秩序におとなしく従うようなイメージです。

もうお遊びはおしまい、と言われているようで、

不条理のように感じていたのでしょう。

 

ハレの日の煌びやかさはないけれど、

明日からも、ふつうの日のふつうの時間を、慈しみたいと思います。

 

さて、奈良で作陶する吉岡萬理さんの展覧会が

鎌倉・うつわ祥見onariNEARで1月9日より始まります。

展覧会に際し、葉書のスペースでは伝えきれない吉岡萬理さんの言葉を印刷し、
新年のご挨拶とともに、ご芳名を頂いた千人を超える皆様に御送りしました。

「シーサーの話」「精神の自由」「僕のシーサーの話」という三つの文章です。

吉岡萬理さんらしいユーモアに溢れた文章で、
ものつくりの精神から生まれる言葉の力強さに
ぐいぐい引き込まれていきます。
現実に憂い、漂う閉塞感に
俳優の伊勢谷祐介さんの言葉を引きながら、
諦めないという言葉を綴っていらして、とても勇気づけられました。

私はいつも素朴で美しい器を伝えたいと願っていますが、
ときには、こんなにカラフルな愛しいものも、
皆さんにおすすめしたいと思うのです。
なぜなら、ここには「希望」があるからです。
平和への願いを諦めず、光のある方向へ。
どんな表現でも、向かう場所はひとつのように思えてなりません。

 

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萬理さんのシーサー君は「諦めない」神様 !なのです。

ぜひ、萬理さんの言葉をご一読ください。

 

【吉岡萬理さんからのメッセージ】


【シーサーの話】

今年は明るく使いやすい器の他に、シーサーが目を引くと思います。
シーサーと言えばわかりやすいからシーサーと言っていますが、猫に見えたら猫でもいいですし、怪獣に見えたら怪獣でもかまわないのです。僕からは「これは~です」とは言いません。見てくださった方が決めるのが一番です。
ここではシーサーと言うことにしますが、
もともとシーサーは、北アフリカ西アジアのライオン(獅子)だったそうです。
百獣の王ライオンは強さの象徴でした。
ライオンは、古代エジプトギリシャでは王や神々の守り神だったそうです。
ピラミッドの前のスフィンクスもそれです。
そしてその強さの象徴ライオンがだんだん東に伝わり中国に入り、朝鮮半島から日本本島に入ったら狛犬に、沖縄に入ったらシーサーになったそうです。

それからシーサーや狛犬には「阿吽」の概念がありますが、飛鳥時代に日本に伝わった時は左右同じ形だったそうです。その後、平安時代になると左右に差異がうまれ獅子と狛犬の組み合わせになり、「阿吽」の形が出来たのもその頃からと言われています。
一応調べてみましたが、人に話されるときは自己責任でお願いします(笑)

ま~そんな事で、今では狛犬もシーサーも「守り神」で「阿吽」があってと皆さん思われていますが、僕のシーサーはもっと自由な神様です。守り神でも構いませんし、戒めの神様でも構いませんし、ただの人形でも構いません。また、「阿」であろうが「吽」であろうが何でも良いのです。
皆さんの思うがまま、考えるがままのシーサー像を作り上げてもらえたらそれが一番です。好きにシーサー!!

 

【精神の自由】


物作りには精神の自由が必要です。
宗教も精神の自由を得るために祈ります。本来、既成概念や欲望やあらゆる煩悩は無いほうが楽なんです。 「何にもとらわれない」それが「精神の自由」なんです。
五郎丸選手のルーティーンも精神の自由を得る為のものです。
普段の練習から一連のあのポーズをすることによって、試合でも練習と同じ精神状態でキックすることが出来るのです。「このキックを入れれば勝つ!!」「入れなければ負ける!!」と言った呪縛から解き放たれ精神の自由を得る事が出来ます。 だからどんな状況の中でも高い確率でキックを決める事が出来るのです。
きっと、座禅や写経やあらゆる祈りは、苦しみや煩悩から逃れる為の物だと思います。
物作りには精神の自由が必要ですが(必要と思った時点で自由ではなくのるので本当は全く何も考えない)、普段の生活もそういうちょっとした時間が必要なのかもしれません。
シーサー君を、人それぞれのイロイロな神様に仕立てあげてもらい、少しでも「精神の自由」を得るお手伝いが出来るなら、それは本当に嬉しい限りです。


【僕のシーサーの話】


僕にとってのシーサーは「諦めない」神様です。
実はここのところ世の中を諦めていました。
福島をはじめとする原発の問題、温暖化、貧困、テロ、その他イロイロひどい話や問題が山積みで、どう考えても明るい未来があるとは思えないからです。
そんな行き詰まった感が漂う世の中ですが、俳優の伊勢谷友介さんは諦めません。
彼が言うには、普通なら諦めるか、思考を停止するか、そんな問題を知らないかだそうです。 それが普通なのだそうです。 そして皆が普通にしているから世の中は変わりません。

世の中を変えるには、変わった人になれば良いのだそうです。
そう言えばいつの世も時代を変えてきた偉人は、最初は変人でした。
そしてその変人が多くなったら世の中が変わるのです。
僕は、超保守奈良県のそのまたド田舎に住んでいるからかもしれませんが、
ご近所さんから「あいつはちょっと変わっとるな~」と言われています。
またそんなご近所さんに地球温暖化の話なんかしたら「そんな先の話より今の話や」「やっぱりあいつは変わっとるな~」と言われてしまいます。
田舎が悪いと言っているのではありません。田舎には田舎の良さがあります。古いしきたりや伝統はこれまでの社会を維持するのに大いに役立ってきたと思います。
しかし、それは普通なのです。 明るい未来を作り上げるよりも、今を生き抜くのに必要な事、またはその方が楽なんです。

しかし、そんな世界観ではおそらく世の中は変わりません。 明るい未来を作るには普通でない変人が増えないとダメだと思うのです。 今までどうしたら良いのか判らなかったのですが、伊勢谷さんの言う事はなるほどです!!
変人を増やせば世の中変える事が出来るという事なんです!!

僕は、自分が世の中変えるような大した事が出来るとなんかこれっぽっちも思っていません。しかし、この話は諦めない理由付けにはなると思うのです。
これまで諦めていましたが、諦めない理由付けが出来たからには諦めずにいようと思うのです。
シーサー君にそれを誓ったのでした。
シーサー君を見るたびに「諦めない」でいようと思うのです。                                                                                吉岡萬理

 

1月9日に初日を迎える吉岡萬理展では、大小さまざま、
カラフルなシーサー君が鎌倉に登場いたします。
ぜひ、お出かけください。

 

吉岡萬理展
会期1月9日(土)~1月18日(月)  会期中休 1月13日(火)  
営業時間 12:00〜18:00
作家在廊日 1月9日(土)1月10日(日) 1月11日(月・祝) 
場所 うつわ祥見 onari NEAR
神奈川県鎌倉市御成町5-28 TEL:0467-81-3504

http://utsuwa-shoken.com/exhibition/detail_20160109yoshioka.html

器、ひとつぶんの心の。

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明けましておめでとうございます。

ただいま、2016年1月2日深夜0時21分です。

新しい時間、新しい空気、新しい気持ち。

短くても、少しずつ、この場で言葉を書き留めていこうと思います。

 

さて、昨年一年も、仕事を通じて、多くの出会いがありました。

わかりあえた、と感じられる瞬間もあり、

振り返っても、そのひとりひとりの方々に出会えたことに感謝する気持ちでいっぱいです。

 

器を通じて、本づくりを通じて、あるいは音楽を通じて、

人はやはり愛しいもの、といま、素直に思えます。

 

このごろは、人間がいつまでも手放することができない、「憎しみを超えて」いこう、という気持ちについて、

「間」(ま) というものがそれに対抗できるのではないかと考えています。

ひとりの人間が自分の時間を丁寧に暮らすことができ、満ち足りる時間を過ごすことができれば、ひとつぶんの「間」が生まれるのでは、と。

「間」は、他者とのあいだの、程よい「間柄」を生み出します。

相手を凌駕することなく、敬いながら、接することができる、その「間」が、いま、この世の中に必要なのではないかと、思います。

 

私にとって、器を伝えることは、かわらず、日々の愛しさと気高さを伝えていく仕事です。よい器は、人のこころのなかに、ひとつぶんの「間」を作り出すものと信じています。器のなかにある「間」とは、ここで一言で言い表すことはできるほど簡単なことではありませんが、ひとつ、言えるのは、やっぱり、よい器には「のびやかさ」があるということでしょうか。のびやかさは、正々堂々としていて、頼れるものです。

ふとしたときに感じる儚さを繋ぎとめる力を持っているものです。

のびやかであり、朗らかであり、

人を励ます力がある器をこれからも伝えていきたいと願っています。

 

器と一日、器と一年。

積み重ねていくすべての時が愛しく感じられてなりません。

ひとつぶんの間を、いつもこころに抱いて。

丁寧に時を重ねていきたいものです。

 

こころより感謝をこめて。

 

祥見知生

 

今年も一年有り難うございました。

皆様、こんにちは。
クリスマスも終わり、いよいよ年の瀬が近づいて参りました。
皆様にとって、今年はどんな年でしたでしょう。
今年も大変お世話になりました。
うつわ祥見が企画する展覧会にお出かけいただいた皆様に心より感謝しています。
今年も印象深い展覧会が数々ございました。支えてくださる皆様のお陰で無事終えることが出来ました。
本当にどうもありがとうございました。


さて、私ごとですが、今月始めに足に怪我をいたしまして、
少し不自由な身体で年の瀬を迎えることになってしまいました。
この数年休みもなく動いておりましたので、
少し長めの「強制命令の休暇」をいただいたような気持ちで
明るく、大好物のみかんを食べながら呑気に過ごしております。
しかしながら、人間って、飽きるものですね。
はじめのうちは何もかも物珍しく、何事も前向き前向き、すべて自分の都合のよいように考えて、
これは神様のくださった休暇に違いない、と気楽に思っていたのですけれど、
だんだんこの状況に「飽きて」きてしまいました。
それで家族の者に「この自分に飽きてきた」とメールでこぼしましたら、
すぐに返信がありました。
「仕方ないね」と一行。
この「仕方ないね」が、実はとても胸に染みました。
いまの私にとって「仕方ない」はいたって潔く、見事に的確、公平な受容の言葉でした。
慰められ、諦められ・・・。
弱音も愚痴も、甘さも、スコーンと気持ちよく軽やかに、見事にどこかへ飛んでいってくれました。


さて、話題をかえて。
最近、つくづく思いますのは人の役割についてです。
「役割」。人はよく生まれてきた意味を考えるものですが、
そういう大切なことは考えてわかるものではなく、考えていることそのものに「意味」があり、
考え続けていくことこそに意味がある、と。
ヒントは「続けていく」ことなのでは、と。そう思うようになりました。
よく言われることですが、何事も継続こそに意味があるのです。
「継続」が意味を作っているとしたら、その続けていることこそ「役割」なのかもしれませんよね。
こんな人生は自分のものではない、もっと大切な役割があるはずだ、と世の中には憂いている方がいらっしゃいます。しかし「昨日したこと」と「今日していること」と「明日しているだろうこと」が繫がっていくと、つまり、続けていくことで他人にもそう見えるものが、人の「役割」なのではないでしょうか。立場と置き換えてもいいかもしれません。


どんな達人でも、人は幾通りもの人生は生きられません。
そしてひとりでは生活もできません。
自給自足。素敵な言葉ですが、そう万能ではありません。
わたしは最近日本酒を多少は呑めるようになり、
酒器のなかでも、ぐい呑みがいよいよ愛しく、その器でお酒を呑むたびに芳醇な味と香りにうっとりし、
なんて喜ばしいのだろうと思うのですが、
そもそもこの酒が出来上がるまでの蔵人の仕事や歴史をひとたび考え出すと、
その有り難さに気が遠くなる思いがします。
お酒はそれほどいただけない私でしたが、料理にはずっと純米酒を使っていました。
どんな料理にもコクと深みを与えてくれるので、毎回その仕事ぶりに惚れ惚れするのですが、酒も塩も砂糖も(うちには砂糖というものはないんですけれども)、鰹節も醤油も、なにもかも、その道のプロという方がいて、つまり、この仕事に関わり、毎日くる日もくる日も、このことを考え、身体を動かし、作っている方々がいらして、わたしの食卓は成り立っているのだなぁ・・と思いますと、本当に頭が下がります。感謝と賞賛を歌い上げる、食卓のミュージカルができそうです。
そしてここでも思いますのは、色々なその道のプロという方がいて、世の中は成り立っているのだということです。そのことは私にとっては相変わらず希望を与えてくれるのです。


同じ仕事を続けていますと、新鮮さが薄れてくることがあります。
いわゆるマンネリというものです。同じことの繰り返しや、あるいは何かを保ために守りに入ったが最後、志も、ときめきも、なぜそのことを始めたのかの「輝きのもと」も失われてしまいます。それでは続けていくことの意味も見失いそうです。
それでは誠に意味喪失であり、まったくもって、面白くありません。
だからこそ、身近に、志の高いものをそばに置き、たとえば今の流れで言えばお酒や塩ひとつ、または本や音楽、家具にいたるまで、尊敬する仕事を感じながら精神のよりどころを確保しておきたいのです。キーワードは続けていくこと、これぞ持続するエネルギーです。
先日もある番組で、天然塩を造られている家業の方が焚き上げる薪ひとつにも手を抜かず、守り続けているお話をされていました。そして「よい塩を造るには昔ながらの手法がいちばんなので続けている」と、誇らしい一言をコメントされていました。
本物の塩が美味しいのは本物だからなのですね。学びとはごく身近にあるものですね。



少し横道にそれましたが、来年の展覧会のスケジュールをまもなくお伝えいたします。
NEARの個展の顔ぶれは毎月毎月楽しみな方ばかりです。
またそのほかの展覧会については年間でほぼ決まってきていますが、
来年からそれらをいっぺんに発表するのではなく、時期が来たら、ひとつひとつお伝えしてくスタイルにいたします。
これまで拡大する方向であったものが一見縮小に見えるかもしれませんが、実は密度がさらに高くなって、情報量がとんでもなく含まれている・・。そういう仕事の方向でいこうと思っています。なるほど、おもしろいね、と見る人にはわかる、そういうことを目指そうと考えています。
うつわ祥見の企画する展覧会を楽しみにしていただけるように、裏切らないものを、と思います。作り手の皆さんとともにそんな展覧会を開きたいと願っています。


久しぶりの更新でしたのに、とりとめのない文章となりました。
onariNEARは1月29日まで。来春は1月4日よりオープンします。
2014年最初の展覧会は吉岡萬理展です。1月11日初日です。奈良から吉岡萬理さんがいらっしゃいます。
新年のご挨拶には年間スケジュールの印刷したカードと、萬理さんのDMとインタビューを同封いたします。吉岡萬理さんの力強く明るい言葉をぜひご一読ください。お出かけください。


年末年始、何かとお忙しいと思いますが、どうぞ皆様、よいお年をお迎えください。
新しい年も変わらず、器とともに朗らかに。うつわ祥見をどうぞ宜しくお願いいたします。

                               2013年12月28日  祥見知生

 小さな言葉

8月、最後の一日となりました。
鎌倉は朝から、かんかんかん・・・と甲高い音が聴こえてくるような、照り返しのある暑い日でしたけれど、
夕刻ともなると、海からふいてくる風が涼を運んできて、「夏の終わり」を感じさせてくれるのです。


さまざまな想いをのせて、2013年の夏は、もう、終わろうとしているのですね。

皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。


わたしの日常は、相変わらず、心配事と嬉しいこと、感謝と不満、悲しみと喜び、笑いと怒り、諦めと不屈、
すべてがミキサーで混ぜ合わされてスープになったような一皿のような、日々でありました。
かと言って、ひと月を振り返りますと、その中身は、濃いと言えば濃いのだけれど、わりと、あっさりとした、さらりとした・・・ものです。
この昨今の感覚は、自分でも不思議なのですが、
先頭に立っている我こそ、我・・・という感覚を身につけて、多少なりとも、生き方が苦しくなくなった成果といいますか、
それが、少し永く生きてきて得た、人生の、ちょっとした「発見」でもあったりいたします。


先頭に立つ我こそ、我・・・とはつまりは、先頭にいる自分が大事・・という話です。


何の先頭か、というと、誰かと比べての位置ではなくて、自分自身の先頭なんですね。
一分前でもなく、一分後でもなく、いま、たったいま、自分の先頭にいる「自分」が無事であることがなんて有難いのだろう、大事なのだろう、ということです。


そう考えていきますと、海からの風を待たずとも、あらゆる不平はどこかへ消えていきます。

さらりと、あっさりと、見事に。


そして、NEARにいきますとね、常設の器たちの、なんて、頼もしいことでしょうか。

力強くて、さりげなくて。かわいくて。

釉薬の清々しさ、無駄のないかたち、きりっと立つ姿の美しさ、力がほどよく抜けた愛らしさ、堂々とした存在感、やさしさ、穏やかさ、初々しさ、素直さ・・・。

それぞれの器たちが、それぞれの顔で、それぞれの個性で、ひとつひとつ。

その姿を見つめていますと、ああなんて器とはよいものなんだろう、と思います。



心のなかに風が吹いてくるのを感じるのです。


不思議なことですね。でも、あの小さな空間にいる器が、言葉を語らずして語りかけてくるものを、いったいなんて表現したらよいのでしょう。
ふだん身近にいても、いても、いても、いても、うまい言葉が見つからないのです。


言葉を見つからない一方で、
小さな言葉を、書くことにしました。


夏の間、少しですけれど、
うつわ祥見のWEBSHOPに新しい器をUPいたしまして、
そこに言葉を書きました。


ここでは、ひとつの器に対して、その子(器)への言葉を書くことをしています。


画像で伝えられることは限られていますが、
それでも、たとえば、NEARに訪れた皆さんが、ふと、その器を手に取られたときに、お話させていただくような言葉を
画面の先にいらっしゃる方にお伝えすることができるのでは、と考えました。


指先で次々に画面を変えていくスピードでは、伝えきれないものが、
この、作り手のいる器の、もっとも素晴らしい魅力といいますか、
存在理由なのです、つまるところ・・・。


そんなことを考える夏の夕刻です。
今日も日暮れて、
遠くて近い、明日がやってきます。

九月。わたしたちの国の、四季のなかでも、豊かな実りの秋。
食卓は、人が、もっとも、愛する場所ですね。
食を見つめることは、いまの自分を見つめることですね。
一瞬一瞬を抱きしめるように、朗らかに、明るくありたいものです。


さて、9月になりましたら、一か月ぶりの展覧会が控えています。
初めて、うつわ祥見で、古いやきものの展覧会を開きます。





くわしくは、うつわ祥見のサイト http://utsuwa-shoken.com をご覧ください。

また近く、この展覧会についてはこの場で書きたいと思います。

ともに生きていく

7月最後の一日、そろそろ夕食の買い物をしなければと家を出て、
鎌倉の夕方の気温はそれほど高くないことに気をよくして、
車に乗らず、一つ先の駅まで歩いてみました。
約束の時間もないので、歩くスピードは速くする必要はありません。
ただ、歩きたかったから歩く。日が暮れた町のなかを。
行き過ぎる景色は見慣れたものですから、発見という発見もないのですが、
それでも、頬にあたる風の流れを感じながら、歩きますと、
なんということのない「歩く」行為が、なんて幸せなことだろうと思いました。
自分の足で歩く。歩を進めることが、うれしい。
文月の夜に、わたしはひとり、着慣れた服でサンダルの姿で、そう、実感しておりました。
変ですね。



うつわ祥見の2013年、上半期の展覧会スケジュールがすべて終了しました。

1月 祝 生誕50年 吉岡萬理展
2月 村木雄児 黒の仕事
3月 吉田直嗣 LIFE展
慈しみの器 愛しき骨壷展
巡る器 旅する器展 東京・国立新美術館地階 SFTギャラリー
4月 尾形アツシ 薪の仕事 土化粧の器展
   巡る器 旅する器展 高松・まちのシューレ
  矢尾板克則 YAOITA WORLD 展
5月 横山拓也 器、或いは旅、結論なき・・展
6月 小野哲平展
石田誠 まことのマコト展IN 札幌 札幌・Cholon
7月 巳亦敬一 硝子のうつわ展
  うつわ、手に包むもの、愛しいもの展 那須・SHOZO CAFE

 

振り返ってみましても、どの展覧会も、力のこもった器たちが集っていました。

それぞれの作り手の「いま」を皆さんとともに共有できたように思います。

お出かけいただいた皆様、本当にどうもありがとうございました。



最近、ある方のお住まいに招かれて、「器の家庭訪問」に行ってまいりました。
「器の家庭訪問?なんのことですか」という感じでありましょうが、
招いてくださったのは、うつわ祥見のオープン間もないころから、展覧会のたびに訪ねてくださった姉妹の方です。
当時は、お二人とも別々にひとり暮らしをされていたので、ひとりずつ自分の好きな器を集められていらしたのですが、
4年ほど前に、海のある歴史ある町に、ふたりで一軒家を借りて住み始められたのです。
「いつの間にか、ほとんどの器は、うつわ祥見で選んだものですよ」とうれしいことをおっしゃるので、
「一度見てみたいなぁ」とお伝えすると、「ぜひ、遊びにきてください」ということになりまして。

それから数年がたち、今回、やっと、その訪問が実現したのでした。

鎌倉から在来線の電車に揺られ、ちょっとした遠足気分です。
夏休みを先取りしているような気持ちで、うれしい胸の高鳴りを感じました。

食卓には、地元で採れた野菜のお料理がずらりと並びました。
皿も鉢も片口も、小皿も、ぐいのみも、湯呑みも、何もかも・・・。
器たちは、本当に愛されて、よい顔をしておりました。

わたしは胸がいっぱいでした。



一年ずつ季節が巡り、年を重ねていくことで、
新しい器が少しずつ増えて。
家の守り神が台所に住むように、もしかしたら、土の器はこのおふたりを見守ってきたのではないだろうか・・と、ふと思いました。

人間の幸せ、というのは、簡単に言葉にできないものですが、
確かに、その食卓にあったものは、
人が食べる、その繰り返しのなかで、人と器の親密な関係、信頼と呼んでいいものなのではないかと思いました。
それは、ひとにとっても、器にとっても、何より幸せなことだと、信じられるのです。

このことを、実は、夕方、高知の哲平さんにも電話で話したのでした。
哲平さんも、言葉少なく、頷いていらっしゃいました。

器は人の時間とともに生きていくものですね。

何気ない日常のなかに、しっかりと、息づいている。

わたしは器たちを時々、抱きしめてあげたいと思います。



いま生きていくことは、苦しい現実のなかで逃げるわけにもいかず、かといって何も変ええる力もなく、
時々、とてつもない無力感にさいなまれることがありますが、それでも、食べて、笑って、眠って、淡々と生きていきたいものですね。


明日から8月。暑い日々がまだ続きますが、どうぞお元気で。


onariNEARは常設の器たちをご覧いただけます。
そして、WEBSHOPでも、とびきりよい器をご紹介していきます。


9月の展覧会は、うつわ祥見初めての「古いやきもの」を展示いたします。
またくわしくはご案内いたします。

9月7日(土)〜9月16日(月) UTSUWA Bon Antiques 展

時を経て存在を放つうつわの美しい姿をご覧いただきます。

どうぞお楽しみに。